旅立つには最高の日

旅立つには最高の日

「たまたまザイール、またコンゴ」以来の、旅についてのエッセイ集ということで、前作が面白かったので読んでみました。

 最後に登場する水津さんという方がとても印象に残りました。

 

P52

 スーダン西部のダルフールに向かうために、首都のハルツームから列車に乗った。

 ・・・

 バックパックを背負って、名前とコンパートメントの番号の書かれた二等のチケットを手に車両に向かう。扉に殺到する人たちと押しあいながら中に入り、窓際の狭い通路を乗客をかきわけ床の荷物をまたぎつつ、自分のコンパートメントへたどりつくとすでに満席だった。いや、よく見ると、向かいあわせの四人がけの座席の片側は四人だが、もう片側は五人いる。満席どころか一人オーバーしている。

 とまどっていると、中にいたひげのスーダン人が「ウェルカム」といって手招きする。といわれても、すわるところがない。・・・

 ほかに場所はないかと通路に目をやるが似たようなものだった。・・・

 しかたなく四人ですわっている側の席に無理やりお尻をはめこむ。・・・

 十人の同室者のうち、ぼくを含めて四人が外国人だった。・・・

 ・・・バックパッカー風の白人は、こういう旅に慣れているのか、大きなからだをもてあまし気味に丸めて、ぼろぼろのペーパーバックを広げ、ときおり顔を上げては、にやにやしている。目が合うと、含みのある薄笑いを浮かべて肩をすくめた。オーストラリア人でマックという名だった。

 ・・・

 列車は予定時刻から三時間ほど遅れて、ゆるゆると動きだした。スピードはせいぜい三十キロ程度。線路の整備がなされていないせいか、車両はしばしば小舟のように大きく左右にゆれる。屋根の上の人たちは大丈夫なのだろうか。

 ・・・

 ほとんど眠れぬまま朝を迎えた。オーストラリア人バックパッカーのマックもさすがにこたえたようで、コンパートメントを抜けだして、どこかへ行ってしまった。・・・

 まもなく列車は大きめの駅に着いた。・・・屋根の上を見ると、ハルツームで見たときより人が増えている。マックも屋根の上にいた。避難したらしい。

 ・・・

 ・・・マックがコンパートメントにやってきて、

「屋上に来いよ。中よりもずっと快適だぜ」といった。

 ・・・連結器のはしご伝いに屋根に上がると、たしかに気持ちがいい。日射しはきついが、風があるので汗もかかない。なにより眺めがいい。・・・

 ・・・

 マックは体格がよく、腕も肩も筋肉が盛りあがり、レスラーかと見まがうほどだった。しかし、その大きなからだとは対照的に荷物はとても少なかった。小さなデイパックに着替えとシュラフ、それに水筒用のポリタンクとアルミのカップと一冊のペーパーバック、持ち物はそれだけ。カメラも持っていない。家を出たのは十代のときで、もう五年以上旅をつづけているという。・・・

「旅の目的とかはあるの?」

「好きだからさ」

「ニヤラからはどうするの?」

中央アフリカへ向かい、そこでビールを飲む」

「家にはいつ帰るの?」

「わからない」マックは肩をすくめた。

 ・・・

 機関車を替えたためにスピードが上がり、車両はこれまで以上に左右に大きく振れる。ぼくとマックは湾曲した屋根に脚を広げてまたがり、ふり落とされないように真ん中に突き出た四角い金具にしがみつく。それでも気は抜けない。

 ・・・

 ・・・マックもぼくも落ちなかったが、マックの靴の片方が屋根から転がり落ちた。脱いだ靴のひもを金具にくくりつけようとして手がすべったのだ。靴はすぐ見えなくなった。マックの靴は頑丈そうな革製のトレッキングシューズだった。長い旅を経てくたびれてはいたものの、いい感じに年季が入っていた。マックは口をとがらして鼻を鳴らし、しばし黙っていたが、突然残っていたもう片方の靴を手にとると夜の闇に向かって思い切り放り投げた。

「ああっ」とぼくは声をあげた。靴が落ちたことより、マックがもう片方の靴をためらうことなく投げ捨てたのがショックだった。・・・片方しかない靴が使い物にならないのはわかる。でも、自分はマックのように、それを即座に投げ捨てられるだろうか。片方になった靴を手に逡巡し、結局捨てられず、背中のリュックに放りこんで、やがてそのことも忘れて歩きつづけるのではないか。じつは、いまもそんな使い物にならなくなった考えや思いこみやしがらみなどでいっぱいになったリュックをそれと知らずに背負いつづけてるのかもしれない。そんな考えが一瞬の間にぐるぐる脳裏を駆けめぐった・・・

 

P108

 ラヤンの涸れ谷を訪れるのは四年ぶりだった。・・・

 ・・・

 印象的だったのは、ここに暮らす修道士たちの屈託のない明るさだった。これほど孤絶した地を選んで禁欲的な修行生活を送るくらいだから、頑固で、とっつきにくい人たちだろうと勝手に思いこんでいたのだが、それは見当ちがいだった。巷のエジプト人から、したたかさやむきだしの欲望といった要素をそぎ落とすと、彼らのようになるのかもしれない。

 そんな感想を口にしたところ、「それはわたしたちがなにも持とうとしないからかもしれません」と白いあごひげを豊かに生やした修道士エリシャがいった。彼は六十代半ばの修道士で、ここに暮らす若い修道士たちの師父にあたる。

「ここにはソーラーパネルもあるし、水もある。おかげで以前よりも祈りに時間を割くことができる。けれども、それだけのことです。なにも持っていないことには変わりありません。持つことに、心をくだく必要がないから、町で暮らしているときよりも悩まずにすむのでしょう。ここにはなんの情報もありません。戦争が起きようが、王様が替わろうが、われわれは知りません。ときどき、あなたのように外から来た人が世の中のことを教えてくれます。それを知ることはかまいませんが、知らなくてもかまわない。修道士にとっては神を感じることだけが意味のあることなのです」

 

P208

 初めてあなたに会ったのは、エジプトのカイロだった。

 カイロに暮らして三年ほどたった一九九三年のはじめだった。ある日、当時旅行者のたまり場だった下町の安宿に滞在していた友人から電話があった。

「すごい人が現れました!七十一歳のバックパッカーなんです」と電話口の向こうで興奮した口調で友人がいった。

 その七十一歳のバックパッカーの水津さんは前年の夏、神戸から船で上海に渡り、中国から陸路でチベット、ネパール、インド、パキスタン、イラン、トルコ、シリア、ヨルダンを経てエジプトにたどりついたところだった。

 しかし、実際に会った水津さん本人は、そのルートから想像されるような旅の強者のイメージとはほど遠かった。履き古したGパンに健康サンダルを履いてドミトリーのベッドに腰かけていたのは、よけいな力の抜けた、春のようなやさしい微笑を浮かべた小柄な関西人の男性だった。

「初めて外国旅行をしたのは六十五歳のときでした」と水津さんはいった。行き先は台湾。どうして台湾へ?「六十で仕事をやめたあと軽のバンで日本を四年かけてまわったんです。行くところもなくなったので、外国でも行ってみるかとリュックを背負って、いちばん近い台湾へ行ってみたんですわ」

 この旅が水津さんの人生を変えた。日本にいるよりも金はかからない。言葉ができなくても、日本人の集まる安宿に行けば若い人と話ができるし、情報も教えてもらえる。台南では日本語を流暢に話す老人たちと昔話もした。旅のおもしろさにハマった水津さんは、年金を資金源に一年のうち十か月くらいはアジアを中心に海外に出るようになる。

 ・・・

 でも、年齢的に病気やけがの不安はないのだろうかと聞くと「わたしの旅の楽しみの一つは入院なんです」という。「何年か前、北京で人気の安宿に行ったら満員だったんです。しょうがないので、近くの病院に行って、風邪をひいたから入院させてくれいうたんですわ。この歳だから病院もいやとはいいません。午前中の医者の回診までベッドにいて、そのあと観光に出かけ、夜、飯を食うてから病院に帰るんですな。ええ休養になりました」

 ・・・

―水津さん、ガイドブックとか持っていくんですか。

「いちおう持っていきますが、まあ、ガイドブックなんて、人から見せてもらえばいいし、たいてい同じバスに白人のバックパッカーとか乗っとるでしょ。バスが目的地に着いたら、そいつのあとをついていけばいいんです。言葉できんから話しかけられんけど、白人は安いとこに行くから、ついていけば安宿にたどりつけます。宿さえ見つかれば、あとはなんとかなる。若い人とちごうて、なにもかも見る気はないしね」

―けっこう見落としてますか。

「ようやりますわ。でも、旅のおもしろさは観光名所の見物じゃないんです。インドのバラナシに行ったとき、ホテルを出て、あの有名なガート見に行ったんですわ。よく話に聞いとったから、ああ、こんなもんか思うて帰ろうとしたんですわ。そしたら、自分のホテルが思いだせんのですよ。名前も場所もまったく思いだせん。しかたないから、近くの大きなホテルへ行って、『自分はどこに泊まっとるのかわからんのですが』と聞いたんです」

―(爆笑)

「そしたら親切な人で、バラナシ中のホテルに片っ端から電話してくれたんですわ。ボーイが迎えに来てくれました(笑)。そんなことのほうが、よう覚えている。まあ、適当にボケるのは楽ですわ。あんまり心配せんからね」

―バラナシといえば、ヒンドゥー教の聖地ですけど、水津さん、宗教には入ってないんですか?

「入ってますよ、ぼくはね、三つ入ってる」

―三つ?

「S学会とK福の科学とあとなんだっけな、あのキリスト教のやつ、そうMモン教やった」

―むちゃくちゃじゃないですか。

「近所の人に入れいわれたから入ったんですわ。でも、ほとんど旅行しとるから集まりとかにも出られんしね」

―じゃあ、信じてないんですか?

「あんなもん、信じるかいな(笑)。まあ、誘ってくれる人にとっては、一人でも信者が増えればいいようやから、人助けと思うて入ったんです。ぼくは宗教が悪いとは思わんですし、信じることで自分の力を発揮できるというのもわかるけど、ぼく自身は死んだら自然に還るんだと単純に考えているんでね。バチ当たりといえばバチ当たりやけど、まだバチが当たっとらん」

 そこまでしゃべると、水津さんは首をかしげて「あるいは、バチが当たって、こうなっとるのかもしれんな。まあ、わしはそれをバチと思うとらんけど(笑)」といった。

 ・・・

 水津さんの病気をきっかけに、ぼくは彼が旅先で出会ったいろんな人たちと知りあうことになった。そして、自分のほかにも、それぞれの理由から、水津さんの旅や生き方に大きな影響を受けた人たちがいることを知った。

 水津さんをかこむ集まりで知りあった方の中に、森さんというプロの将棋の棋士がいた。・・・

 森さんは、水津さんとつきあうようになって、勝ち負けがどうでもよくなってきたといった。それはプロの棋士としては致命的なのではないですかというと、たしかにそうですねえといって苦笑いした。

 ・・・

 森夫妻は身寄りのない水津さんのために、買い物をしたり、洗濯をしたり、写真の整理をしたりと、こまごまと世話をされていた。

 そこまで水津さんに惹かれるのはなぜですか、と聞くと、森さんは少し考えてから「一種のふところの深さですね。ぼくは人の好き嫌いがけっこうあるけれど、水津さんは好き嫌いで人を見ない。他人と接するとき敵味方という意識がない」といった。「ただ、逆にそういう性格のために、人から利用されたり、だまされたりもする。でも、だまされても平気なんです。相手を許してしまう。それがあの人の強さなんでしょう」

 旅行中にも水津さんはなんどか有り金を奪われている。この入院中にも相当額の金をだましとられる事件が起きていた。それでも、いっこうに気にしない。失うことに対して、鈍感ともいえるほど気にしないのが水津さんだった。

 ほかの人たちも、それぞれに水津さんの生き方に、自分の憧れを見ていた。見栄やプライド、世間体やしがらみといったものにとらわれず、孤独や死とあるがままに向きあい、それらに動じることなく、生きることを楽しむ。哲学的になったり、枯れたりすることもない。あきれるほど自然体である。

 もちろん、実際にそうやって生きられる人はなかなかいない。しかし、自分にはできなくても、水津さんの生き方にふれることで、みずからの抱えている悩みが、じつはたいしたものではないと気づかされる。だから、水津さんのまわりには、自然といろんな人たちが集まってきた。