読んでいるだけでものすごい臭いがしてきそうな場面も結構あり、すごい体験だなぁと・・・ザイール(コンゴ)河を1991年と2012年に旅したお話です。
P14
・・・中東情勢があわただしくなってきた。・・・
・・・
カイロの暮らしにとくに変化はなかったけれど、家族のいる日本人駐在員の多くは万一に備えて出国していった。ぼくたちも、もし戦争になるのなら避難をかねて、どこかへ旅行しようと考えていた。脳裏に浮かんでいた行き先はあったのだけれど、それを口にするタイミングをはかりかねていた。
ある日、食事のとき、できるだけなにげない調子で切り出した。
「やはり、このままカイロにいては、何があるかわからないと思うんだ」
「そうね」
「せっかくの機会だから、アフリカへ行くのもいいかなと思って」
「そうねえ」
「で、その……ザイールなんて、おもしろいんじゃないかなと思うんだ」
彼女は恨めしそうにこちらを見た。
「究極の選択ね。戦争をとるか、ザイールでサルの燻製を食べるか……」
「べつにサルを食うとはいってないよ。行ってみれば案外いいところかもしれない」
「スーダンに行くときも、そんなこといってたわね。この前はトラックで砂漠をこえて、こんどはジャングルの河を丸木舟で下ろうというの?」
「丸木舟で下るなんて考えていないよ。調べてみたら、大きなクルーズ船もあるっていう話だし。いずれにしても、カイロに残っているのはちょっと危険じゃないかな、と思ったんだよ」
「それなら、ヨーロッパでもアジアでも、ほかに国はいくらでもあるじゃない。たとえアフリカでもケニアとか。なんでよりによってザイールなの?」
P20
「何、あれ……」
この旅のさなか、いくたびとなく口にすることになる言葉をつぶやきながら、妻が前方を見つめている。つられてぼくも目をあげる。
それは非現実的な光景だった。たしかにザイール北東部の密林をぬける道は、アフリカ大陸でも屈指の悪路だと聞いていた。しかし、これほどとは思わなかった。
数時間前、トラックの荷台に乗ってウガンダ国境近くの町を出発した。荷台にはキャッサバの袋やバナナがうずたかく積まれ、その上に二〇人ほどの地元民が魚の燻製や脚をしばられたニワトリなどを抱えて座っている。そのわずかな隙間に尻をねじこんで席を確保した。
・・・
「なんで、こんなところに落とし穴があるんだ?」
荷台の鉄枠にしがみついてぼくはいった。
「知らないわよ」妻が答える。
そうこうするうちにも、トラックはのろのろと大穴の中に入りこんでいく。・・・
穴の底には水がたまり、車輪はスリップする。それでもトラックはアクセルを全開にして黒煙を噴きあげ、狂った水車みたいに泥水をはねあげながら、やっとのことで穴から這いだす。ほっとしたのもつかのま、次の穴がひかえている。
どうしてこんな大きな穴ができるのか。それはトラックがスタックすると、車輪のまわりのぬかるみをとりのぞくために車輪のまわりの地面をスコップで掘りかえすためだ。そうやってできた穴は放置され、そこにまた雨水がたまる。すると、また別のトラックがスタックする。車輪を掘りかえす。そのくりかえしで、ついにはトラックが埋もれるほどの巨大な穴ができるのだ。
・・・
穴の縁を這うように慎重にすすむトラックの車体が徐々に傾く。このままだとまずい。
「倒れそうになったら飛びおりよう」と妻にいう。
「飛びおりるって、どこへ?」
「あっちの茂みのほう」ぼくは穴と反対側の森をさす。
・・・
次の瞬間、トラックが穴の側にぐらりと傾いた。いまかと思ったとき、先じて地元民の男が数人荷台から飛びおりた。女たちが金切り声をあげパニックを起こしそうになる。やばい、飛びおりなくては、と思ったそのときだった。
荷台にいた男の一人が、突然「ハレルヤー」と声をあげて讃美歌を歌いだした。一瞬遅れて他の男たちも唱和した。泣いていた女たちも「ハレルヤ、ハレルヤ」としゃくりあげながら唱和する。ぼくたちは飛びおりるのも忘れて、突然始まったハレルヤコーラスを呆然と見つめていた。それは不思議に感動的な光景だった。この密林のハレルヤにおされて、トラックはぶじ穴の縁をわたりきった。
それからは、巨大な穴を迂回するたびに、荷台はハレルヤの大合唱になった。ぼくたちもいっしょになって歌った。歌いながら、いったい、なんなんだ、これはと感じて笑いがこみあげてきた。命がけなんだけれど、どこかのんびりしたジャングルの旅。これがザイールなのか―。
P111
「おまえたちは、いったい何をそんなにいっぱい持っているんだ」
丸木舟に満載されたさまざまな荷物を見て、村人たちはよくそういって驚いた。しかし、荷物ばかりではなかった。この環境下で生きぬくために、ぼくたちは村人には縁のない有形、無形の荷をおびただしく背負っていた。
ここに来るために、黄熱病、コレラ、破傷風、肝炎など、たくさんの予防注射をうった。くわえてマラリアの予防薬を服用したり、ビタミン剤を飲んだりもしていた。水には浄化剤を溶かした。妻は毎日日焼け止めを塗りたくった。村では、虫よけスプレーを噴霧し、蚊取線香を焚きこめ、夜はネット付きのテントにもぐりこむ。虫さされにはムヒを塗り、けがはすぐ消毒して抗生物質入りの化膿止め軟膏を塗る。いずれも、村人には縁のないものばかりであり、どうして、そこまでしなくてはならないのか、彼らには理解しにくかったようである。
しかし、これだけ気をつかっていたにもかかわらず、舟旅が終わりに近づくころには、二人ともぼろぼろだった。妻は予防薬を飲んでいながらも二度目のマラリアにかかり、下痢もなかなか止まらなかった。生理も止まってしまった。ぼくの方は手足の数百か所の蚊やアリの咬傷が膿んでいつまでも治らなかった。マラリアの予防薬の副作用による発疹もあいかわらずだった。けれども、そんな環境の中で、ここの人びとはろくな薬もなしに暮らしていた。これは驚きだけではすまないことのような気がした。
P250
「でも、ここにいるとコンゴ人がどんな世界に生きているのかわかって勉強になります」
たしかに、こうした世界の中で生きていれば、先のことを期待しなくなるし、先のことを考えて行動などしなくなる。存在するのは「いま」だけなのだから、その「いま」をなんとかしなくてはという気になる。本来、生きるとは、そういうことなのだろう。
ただし、それは彼らが望んだというより、苛酷な環境が、おのずと要求した生き方なのかもしれない。今日食べられるかどうかもわからないのに、過去を悔いたり、明日のことを心配しているゆとりはない。いま、ここに食べるものがあるのならば、それを食べることに集中する。明日はまだ存在していないのだから。
・・・
若者はコンゴに来る前は相当に神経質な性格だったという。はじめはシャワーが浴びられないだけで気持ち悪かった。でも、浴びなくてもなんとかなることがわかった。同様に、服をとりかえなくても、プライバシーがなくても、虫がいても、電気や水がなくても、ろくな食べ物がなくても、「私は悪い人です」と顔に書いてある人にからまれても、不条理や理不尽が束になって襲いかかってきても、なんとかなることもわかった。そういうことが際限なくくりかえされるうちに、こうでなくてはだめだ、という思いこみのハードルがどんどん低くなっていったのだろう。
タフであるとは肉体の強靭さとか不屈の意志ということとはあまり関係ない。むしろ、思いこみがはがれ落ちても、中身の自分が意外と大丈夫だと気づくことではないか。
P281
スピードボート三日目の朝。出発前の船長の言葉では、キンシャサに到着するはずの日だが、案の定、まだ半分も来ていない。
船長はこれまで数えきないくらいコンゴ河を往復しているのだから、冷静に考えれば三日でキンシャサに行けるはずがないことなどわかるはずだ。それなのに「三日で着く」といいきってしまえるのは、どうしてなのか。
時間にルーズといってしまえば、それまでだ。しかし、こういうことがくりかえされるうちに、むしろ自分たちのほうこそ時間的正確さに毒されていることに気づかされる。
自分は時間へのこだわりはユルイほうだと思うのだけれど、それでもここだと、つい距離や時間を計算して先の予定を割り出そうとしてしまう。あまりにも先が予測できないことに不安になるからだ。
予定をたて、その予定通りに物事が進むことをよしとする考え方は当たり前のものと思われている。・・・
だが、ここでは未来に何が起きるか本当にわからない。・・・予定や計画をつらぬこうとする意志の力よりも、思いもよらない偶然や突然の出来事が起きても、それとなんとか折り合いをつけ、わたりあい、楽しんでしまう力こそが、ここで生きるうえでは不可欠なのだ。
いや、ここだけではない。じつは世界中どこだってそうなのだと思う。世界は偶然と突然でできている。・・・
P290
ンバンダカで迎える三日目の夕方、ようやく燃料が届く。・・・いよいよ出発である。
と思ったら、肝心の船長がいない!
シンゴ君が聞いたところによると、どうやら船長には三人の妻がいて、そのうち一人がこの町に住んでいるとかで、そこへ行ってしまったらしい。なんだ、そりゃ?
それだけではなかった。乗客の中にパトロンの娘がいたそうなのだが、彼女がなぜか今夜は出発したくないといって、どこかに姿をくらましてしまったという。なんだ、そりゃ?
いろんなことがめちゃくちゃだ。だれもが好き勝手に行動する。人の迷惑なんて考えない。でも、ほかの乗客はたいして気にしていない。さすがである。迷惑だと感じる人がいなければ迷惑は存在しないのだ。
