カフカ断片集

カフカ断片集―海辺の貝殻のようにうつろで、ひと足でふみつぶされそうだ―(新潮文庫)

 裏表紙に「胸をつかれる絶望的な感情、思わず笑ってしまうほどネガティブな嘆き、不条理で不可解な物語、そして息をのむほど美しい言葉。誰よりも弱くて繊細で、人間らしく生きたカフカが贈る極上の断片集」とありました。

 

P24

 わたしはいつでも道に迷う

 森の中だが、ちゃんと道がある。

 うっそうとした暗い森だが、道の上にはわずかな空も見える。

 それでもわたしは、果てしなく、絶望的に、道に迷う。

 しかもわたしは、一歩、道から外れると、たちまち千歩も森に入りこんでしまう。

 よるべなくひとりだ。

 このまま倒れて、ずっと倒れたままでいたい……

(創作ノート1920年8月/12月)

 

P34

 この小屋にはなにもない、まったくなにもない。窓ガラスもなくなって窓枠だけになっているところから、森のざわめきが静かに流れこんでくるだけだ。

 ここはなんてさびしいんだ。どうしておまえはここにいるんだ。

 おまえはこの小屋の隅で眠るんだね。どうして森のなかで、新鮮な空気のなかで眠らないんだ?

 ここを動きたくないんだね。小屋のなかのほうが安全だと思っていて。

 蝶番がこわれて、ドアはとっくになくなってしまっているというのに。

 それでもおまえは、宙に手をのばしてドアを閉めるようなしぐさをし、それから横になる。

(八つ折り判ノートC)

 

P51

 わたしは何を肩にのせているのだろう?

 どんな幻影がわたしにまとわりついているのか?

(八つ折り判ノートF)

 

P61

 おまえは平穏を嘆いている。

 なにも起きないことを、平穏という善の壁で守られていることを嘆いている。

(八つ折り判ノートG)

 

P73

 何もしないことは、あらゆる悪徳の始まりであり、あらゆる美徳の頂点である。

(八つ折り判ノートG)

 

P155

 うまくいかないことは、うまくいかないままにしておかなくては。

 さもないと、もっとうまくいかなくなる。

(会話メモ)

 

P184

 フランツ・カフカ Franz Kafka

 

 1993年7月3日、当時オーストリア=ハンガリー帝国の領土だったボヘミア王国(現在のチェコ共和国)の首都プラハで、豊かなユダヤ人の商人の息子として生まれる(同じ年、日本では志賀直哉が生まれている)。

 大学で法律を学び、半官半民の労働者障害保険協会に勤めて、サラリーマン生活を送りながら、ドイツ語で小説を書いた。

 当時の人気作家だった親友のマックス・ブロートの助力で、いくつかの作品を新聞や雑誌に発表し、『変身』などの単行本を数冊出す。しかし、生前はリルケなどごく一部の作家にしか評価されず、ほとんど無名だった(『変身』が出版された1915年、日本では芥川龍之介の『羅生門』が雑誌に掲載された)。

 1917年、34歳のとき喀血し、1922年、労働者障害保険協会を退職する。

 1924年6月3日、41歳の誕生日の一カ月前、結核で死亡(同じ年、日本では安部公房が生まれている)。

 3度婚約するが、3度婚約解消し、生涯独身で、子供もなかった。

 遺稿として、3つの長編『アメリカ(失踪者)』、『審判(訴訟)』(夏目漱石の「こころ」と同じ頃に書かれた)、『城』のほか、たくさんの短編や断片、日記や手紙などが残された。

 それらをブロートがそうとう苦労して次々と出版していった。ブロート自身は無報酬で、出版社から得るお金は、カフカの病気治療のために多額の借金をかかえていたカフカの両親と、同じく経済的に困窮していたカフカの最期を看取った恋人にすべて渡していた。

 ブロートは、1939年、ナチス・ドイツプラハを占領する前夜に、カフカの遺稿を詰め込んだトランクを抱えてかろうじて逃げ出し、遺稿を守ったこともある。

 最初の日本語訳が出版されたのは1940年(昭和15年)。白水社刊、本野亨一訳『審判』。6、7冊しか売れなかった(そのうちの1冊を高校生の安部公房が手に入れていた)。

 今では世界的に、20世紀最高の小説家という評価を受けるようになっている。

 しかし、カフカが本当に読まれるのは、むしろこれからだ。