口の立つやつが勝つってことでいいのか

口の立つやつが勝つってことでいいのか

そういう経験をした著者が教えてくれる視点、大切だなと思いました。 

 

P91

 私は、お礼を言わない世界を体験したのだ。

 しかも、それがまったく不愉快ではなかった。

 不愉快でなかったどころか、そのほうがずっとよかった。

 お礼を言い合う世界より、ずっと美しいと思った。

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 初めて宮古島に行ったとき、飛行場に着いて、さあ荷物棚から手荷物を降ろそうというとき、私は少し離れた棚に荷物を入れていたので、通路から人がいなくなるまで、手が届かなかった。

 なので、ただぼうっと立って待っていたのだが、そうすると見知らぬ男が、私の荷物をがしっとつかんだ。

 荷物をとってくれる気なら、こちらに笑顔を向けたり、なんらかのサインを送るだろう。しかし、その男は無表情だし、こちらを見てもいない。まさか、目の前で盗む気なのか?その男はとてもたくましかった。こっちはひょろひょろだ。それで強奪しようということなのか?

 ところが、男は私の前まで来ると、その荷物を無造作に渡して、そのままさっさと飛行機を降りて行った。

 私はしばらく茫然としてしまった。今のは、親切に荷物を取ってくれたということなのだろうか?・・・

 その後、宮古島に移住して、だんだんわかってきたが、むこうでは親切にするのがあたりまえなのだ。だから、いちいちお礼を言う必要はない。あたりまえのこととして、なんでもなく親切にし、なんでもなく親切を受ける。だから、その男の人も無表情で、そのまま去って行ったのだ。

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 親切にするのがあたりまえで、お礼も言わないのがあたりまえだから、かえってどんどん親切にできる。相手が恐縮しないからだ。

 自分も平気で親切を受け入れられるようになってくる。「人の世話になるのは申し訳ない」というような、精神的な負担を感じなくてすむからだ。

 これは本当に素晴らしいと思った。これこそ、本当に美しいと。

 

P96

『僕とオトウト』という映画を見た。大学生の兄が、知的障害のある弟との関係を撮ったドキュメンタリーだ。兄は弟に好きなことをさせてやりたいと願うが、大きな望みを持つことができない弟に、せつなさを感じる。そのことをプロデューサーからこう指摘される。「好きなことをさせてやろうっていう考え方が、一段高みから見てる感じがする。かわいそうだとか、気の毒だから、こうしてやりたいって思いがあるんじゃないのか。だから「せつない」とか、そんな言葉が落ちてくる」

 兄は自分の気持ちを吐露する。「せつないとか、かなしいとか、かわいそうっていうのが、差別にあたることかもしれないというのは、自分の中にもあるし、人から言われたこともあるんですけど、でも、さみしいもんはさみしいし、かなしいもんはかなしいし、せつないもんはせつないんですよ。ダメとかダメじゃないとか、視点がちがうとか、そんなの知らねえよって」

 ここが、すごくよかった。

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「障害者はかわいそうではない」という認識は大切だし、社会を変えていかなければならないのはもちろんだ。しかし、まだ変わっていない社会にあって、同情してくれる人の存在はとても貴い。そういう人がいなければ、現状、生きていけないし、世の中も変わっていかないだろう。「かわいそう」や同情をよくないこととしてしまっては、そういう人たちの気持ちも行動も委縮してしまうのではないだろうか。それが心配なのだ。

 

P113

 愛が大切というような言い方に比べて、「愛は負けても、親切は勝つ」というヴォネガットの言い方は、すごく現実的だと思う。シビアなほどに。

 きっと、かなりきつい体験をしてきた人なのではないかなと思ったら、やはりそうだった。

 大学生のときに、ちょうど第二次世界大戦の最中で、ヴォネガットは陸軍に配属され、歩兵としてライフルを持たされて戦場に出される。そのことのショックもあって、彼の母親は、母の日に自殺してしまう。

 ヴォネガットはドイツ軍にとらえられ、収容所に送られた。なんとか生き延びるが、味方の軍の空襲で死にかける。スローターハウス5という名前の地下の食肉倉庫にこもることで、なんとか助かっている。

 戦争が終わって、サラリーマンになって、妻との間に3人の子どもができるが、姉夫婦が亡くなってその3人の子どもも引き取ることに。8人家族になり、生活は大変だった。

 離婚して再婚もしている。そのとき、再婚相手の子どもも1人、引き取る。

 なんとか一発当てようと、新しいネクタイを考えて、シャツ会社に売ろうとするが、失敗。新しいゲームを考えようとして、これも失敗。自動車販売店を開くものの、これも失敗。

 小説を発表するが、なかなか評価されなかった。ようやく評価されたのは47歳のときで、もう執筆をやめようとしていたときだった。

 その後もいろいろと苦労していて、家が火事になって死にかけたりもしている。

 そういう人が、人生でいちばん大切だと思うことは、「親切」だったわけだ。

 ヴォネガットは『スラップスティック』(ハヤカワ文庫)という作品の中で、こう言っている。朝倉久志の訳。

 

 あなたがたがもし諍いを起こしたときは、おたがいにこういってほしい。「どうか―愛をちょっぴり少なめに、ありふれた親切をちょっぴり多めに」

 

 忘れないようにしたい言葉だ。

 

P139

 何かについて聞くなら、そのことに違和感を抱いている人に聞くのがいいかもしれない。

 カフカはずっと生きづらさを感じていた。でも、自殺せずに、サラリーマンとして日常生活を送っていた。だからこそ、深く現実をとらえた小説が書けたのかもしれない。

 社会について聞くなら、社会的成功者ではなく、社会に違和感を抱いている人に聞くほうがいいかもしれない。

 日本について聞くなら、日本に違和感を抱いている人に聞くほうがいいのかもしれない。

 人生について聞くなら、人生がうまくいっている人ではなく、人生に違和感を抱きながら、それでもなんとか生きている人に聞くのがいいかもしれない。

 そういえば、学生時代、サッカー部なのに「サッカーのこういうところがおかしい」とあれこれ批判する男がいて、サッカー好きな人間には気がつけない指摘がたくさんあって、いつも面白かった。

 いつか、いろんな分野について、その分野でうまく行っている人ではなく、違和感を抱いている人たち(でもその分野で活動してる人たち)にインタビューした本を出してみたいものだ。

 

P209

 「あなたのような人生なら、死んだほうがましだ」ということを、おそらく100回以上は言われてきた。

 これは私に限らず、病気や障害のある人なら、たいてい何度となく言われているだろう。病院の6人部屋でも、またかというほど、よく耳にした。言うぞ言うぞと思っていると、やっぱり言ったりする。

 そんなひどいことを口に出す人はいないでしょう?と思うかもしれない。たしかに、内心で思っても、口に出せることではない。

 しかし、もっと軽い言い方で、つい悪気なく、口にしてしまうのだ。たとえば、私は食べられるものがかなり限られていたので、「好きなものを自由に食べられないなんて、わたしだったら死んでしまう」と何回言われたかしれない。お酒も飲めないので、「お酒が飲めないなんて、オレだったら死んだほうがましだ」と言われ、外出がしづらかったので、「自由に出歩けないなんて、死んだも同然ね」と言われた。

 これらは悪意があって言っているわけではない。傷つけようとしているわけでもない。食事制限の話を聞いたりして、その大変さに驚いて、ついそう言ってしまうのだ。「死んだほうがまし」も、ふだんから「こんな暑い日にビールを飲めないなら死んだほうがまし」とか軽い意味で使っているわけで、本気で死と天秤にかけているわけではない。むしろ、「自分だったら死んだほうがましだと思うことに、あなたは耐えていて、えらい、立派だ」と称賛する意味で言っている人も多い。

 ただ、病人のほうは、今まさに、死なないようにがんばっているところなので、「死んだほうがまし」と言われると、最初はぎょっとしてしまう。

 といっても、「病人や障害者が傷つくので、そういう言い方はやめましょう」ということが言いたいわけではない。

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 どんなひどい言い方でも、そこに悪意がなければ、問題ないと思う。悪意のあるなしは、言われたほうはわかるものだ。

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 それより問題は、多くの人が「死んだほうがまし」と感じる人生を、どう生きていくかだ。

 これが難問だ。

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 食事に関しては、私は13年間、豆腐と半熟卵とササミと裏ごしした野菜と、栄養剤で暮らしていたので、食べる喜びがこんなに制限された人生は、みんなが言うように、本当に「死んだほうがまし」なのかもしれないと、かなり気になっていた。私としては、死んだほうがましとは思わないが、それは自己欺瞞なのではないかと。「人生で大切なのはお金ではない」と貧乏な人が言っても説得力を持ちにくいのと同じように、食べられない人間が「食べる喜びがなくても、人生は生きる価値がある」と言っても、はなはだ説得力がなく、自分自身でもその言葉を信じきれなかったのだ。

 だが幸いなことに、私は手術をして、なんでも食べられるようになった。その喜びは大変なものだった。今まで禁じられていたものを、ふんだんにむさぼった。禁じられていた長い期間があっただけに、その食べる喜びは、普通の人たち以上だったと思う。

 しかし、それをぞんぶんに味わった上で、私は「食べる喜びがなくても、人生に生きる価値はある」と感じることができた。これは、とても嬉しかったし、やっぱりそうだったかと、ものすごく安心した。自己欺瞞ではなかった、真実だったと、確信できた。