ある大学教員の日常と非日常

ある大学教員の日常と非日常

 迷宮をさまよう感覚を疑似体験できました・・・(;^_^A

 

P4

 ・・・二〇二一年四月、サバティカルが半年後に迫ってきたことに僕は焦っていた。サバティカルとは研究専念期間のこと。半年のあいだ、大学の日常業務から解放されて、研究に打ちこむことが許される。・・・

 ・・・

 でもすでにコロナ禍の状況だったから、僕は半信半疑だった。サバティカルの取得が決定した直後、学部事務担当のYさんに「海外に行けない可能性が高いと思うんですよね」と相談してみた。Yさんは「サバティカルに入る三ヶ月くらい前に、予定を変更すると書類で申請してください」と伝えられた。サバティカルに入る三ヶ月前ということは二〇二一年の七月だ。夏休み前の最後の数回の会議が開催される月だ。その七月が、もう迫ってきた。

 結論から言うと、僕は出国できることになったのだが、その出国に一度失敗する。その後の鬱屈した日々を経て、二度目の挑戦で出国できたが、そこで待っていたのはコロナ禍中のロックダウン生活だった。僕はその日々を「障害者モード」で乗りきる。そして、海外滞在中に隣国でロシアによるウクライナ侵攻が始まり、周囲の状況が緊迫していく。

 精神疾患の当事者がコロナ禍を生き、戦争を身近で感じた日々のちょっとだけ稀有な記録。それが本書の内容だ。

 

P86

 すぐ眼の前には出国審査のカウンターが並んでいる。どこにも列はできていない。男性審査官が僕に眼で合図をしてくれたので、そこに向かう。厳粛な気分になる。正々堂々としていなければと気が引き締まる。パスポートを渡して、彼は機械でスキャンする。彼はもう一度スキャンして、画面を見つめる。そして、画面を何やら操作していく。なぜか新しい審査官がやってきて、彼は席を外す。僕は彼から「ちょっと事務室に来てくれますか」と言われる。僕は驚きながら、「あの、何か問題があるのでしょうか」と尋ねる。彼は「とりあえずこちらへ」と言い、僕たちはふたりで近くの事務室に向かう。彼は部屋のなかに入ってゆき、僕は扉の前で待つ。彼は同僚たちと集まって会話をしているが、その声は聞こえてこない。彼は出てきて僕に言った。「パスポートを紛失したことがありますか」。

 その瞬間、僕に記憶が甦りかける。断片的な記憶が小さく弾ける。あれはいつのことだっただろうか。そう、たしかにパスポートをなくして新しいものに作りかえた。僕は言った。「はい、それがその新しいパスポートです」。彼はまた部屋に入っていき、同僚と協議し、出てきて僕に言った。「いつ頃なくしたか覚えていますか」。僕は「二〇一五年頃かな。上海に行く前に作りなおしたような気がします」。彼はまた部屋に入り、同僚たちと会話し、僕に言った。「このパスポートは無効になっています。大使館かパスポートセンターに電話して、状況を確認してください」。

 僕はその「無効」という言葉を聞いても現実感が湧かなかった。じゃあこの場で有効にしてください、と言いたかった。僕は冷静になろうと務めた。「パスポートセンターとはどこですか」と僕は尋ねた。相手は「パスポートはどこで作ったんですか」と訊きかえしてくる。僕は「京都です」と答えた。彼は「ではその事務所に電話してください」と言う。僕は「そこか大使館ですか」と言う。「いや、大使館は違うかな。京都のパスポート事務所に電話すれば大丈夫です」と言った。

 僕は電話して「いま空港に来ているんですが、パスポートが無効と言われたんです」と言った。「以前パスポートを作りなおしたことがあって」と口にした瞬間、僕はようやく記憶の全体像が立ちあがる炎に包まれた。僕は二〇一五年にパスポートを紛失したと考え、新しくパスポートを作成した。それによって古いパスポートは自動的に無効になった。だが、僕はそのなくしたと思っていたパスポートを上海の旅行が終わったあとに発見して、間違って使用しないようにと表紙をわざと少し破っておいたのだ。捨てなかったのは、旅行の記録になると考えたからだ。そして、両方のパスポートを「ふだん使わない大切なもの」の袋に入れて保管した。そしてその、パスポートの紛失、のちの発見、表紙をわざと破いておいたこと、袋に入れてしまったことに関する記憶がすべて脳から脱落していた。僕は先月、袋からその古いパスポートを誤って取りだした。取りだした際、僕は顔写真のページを見て、有効期限が切れていないことを確認した。いま見てもたしかに切れていない。だから、そのパスポートを使ってビザ発給の手続きをした。だが、それは無効になったパスポートだったのだ。

 自閉スペクトラム症があると、フラッシュバックがよく起こり、他者が当惑するくらい詳細に記憶している過去の情報もあれば、逆に「なぜそんな大事なことを忘れるのか」というくらい失念してしまう情報もある。僕は電話をしながら、京都のパスポートセンターにいるその担当者ともはや話す必要がないことを理解しつつ、念のために尋ねた。「もちろんこのパスポートでは旅行できないですよね?」相手は平然と答える。「そうですね、無効化したものを有効にすることはできません」

 僕の全存在が激震していた。ぼんやりした頭で、審査官に「では帰ります」と伝えて、手荷物検査所に向かった。事情を説明して、出してもらう。すぐ近くにあったA社のカウンターに行く。事情を簡単に報告して、キャリーバッグを回収したいですと伝えた。女性たちが大至急で対応を開始する。旅行会社に電話をしたほうが良いと勧められた。旅行会社のEに電話すると、「残念ですが、このケースではほとんど返金ができません。伊丹から羽田まで、すでに旅程を開始していますから」と伝えられた。

 あしたはウィーンで借りたマンションでオーナーと会い、部屋の鍵を受けとることになっていた。仲介してくれた会社の担当者にメールを送り、事情を簡単に説明し、ビザの取りなおしから始めるため、到着は一ヶ月くらい遅れると思うと伝えた。到着後のホテルの解約を依頼したが、応答がない。なるほど、そうか、現地ではいまは深夜だ。手荷物受取所に行き、青い大きな一五キログラム弱のキャリーバッグと再会する。つきそってくれた女性の係員は、いたわりに満ちた表情で「次回はどうかお気をつけて」と僕に言った。僕は、この重量の荷物を引きつれて京都から神戸へ、神戸から伊丹へ、伊丹から羽田へ、そして羽田から京都に移動していく謎の人物なのだ。この太ったキャリーバッグに散歩をさせてあげたかのようだ。「楽しかったかい、キャリーバッグ?」と僕は心のなかでつぶやいた。

 航空運賃と昨夜のホテル代を失い、おそらく到着後のホテル代も帰ってこない。これから京都に帰るために新幹線代を出す。ウィーンで借りたマンションのために、無駄な家賃を支払う必要もある。かれこれ二五万円ほどの損失だ。いや、ホテル代や空港と自宅との交通費などを入れたら三〇万円ほどの損失になる。

 ・・・

 大使館に事情を説明するメールを送った。デニスにもメールを書いた。来週以降、ホームヘルパーの依頼を解除していたが、やはりこれまでと同じく来てほしいという連絡のメールを送った。自宅の電気の開通の手続きをした。ガスに関しては席を離れて、電話で若干面倒なやりとりをする必要があった。閉栓に際して立ちあう必要があったのだが、僕がすでに不在にしていたため、担当者が単独で閉栓していたのだ。あした開栓に立ちあうという話で落着する。

 メールを何通も書いたり電話をかけたりしているうちに、時間はつるつると流れた。京都駅に到着し、地下鉄で北大路駅まで移動した。そこから市バスに乗り、自宅近くのバス停で降りる。五分ほど歩いて自宅に到着。電気はもう通じている。キャリーバッグを玄関脇に置いて、戸棚を開いて僕は「ふだん使わない大切なもの」の袋を開けた。そして新しい、有効なパスポートを発見した。

 ふたつのパスポートを見ていると、笑いが込みあげてきた。今回の出来事は、他人事として突きはなして見たら、かなり笑える案件ではないだろうか。僕はツイッターで、出国に失敗して数十万円の損害を受けたと書き、発達障害者が海外旅行をしたらどうなるかというテーマで本を作りたい出版社はありませんか、と書いて投稿ボタンを押した。そのツイートが小規模ながらバズって、七人の編集者から興味があるという連絡を受けた。最初に声をかけてくれたのが、この本の編集者、安藤聡さんだ。そしてこの本の企画が始まった。

 

P103

 出国失敗後、もっとも深々と味わったのは頭木弘樹さんの著作だった。・・・

 頭木さんは、大学三年生、二〇歳のときから潰瘍性大腸炎を患った。・・・就職も大学院進学も無理で、親元で面倒を見てもらいながら一生を終えるほかないという宣告を受ける。絶望のなかで入退院を繰りかえしながら一三年を過ごし、手術を受けて、寛解したとはいえ、五〇代後半になった現在も完治していない。

 そんな頭木さんを救ったのが文学作品の数々だった。

 

 物語を書きかえるしかないんだと思った。/青春ドラマを書けと言っていたプロデューサーから、翌日には突然、難病物語を書けと言われて、混乱してあわてる脚本家のように、それでもなんとか、新しい物語を書き直すしかないのだ。/物語を書き直すためには、やっぱり、たくさんの物語を知っていなければいけない。多ければ多いほどいい。/だから、今でも私は文学を読みつづける。自分の物語を新しく書き直すために。

 ・・・

 ・・・頭木さんの文章を読んで、僕も自分の物語を書きなおすために、たくさんの文学作品を読んでいたのだと気づくことができた。

 頭木さんは絶望に寄りそう書き手だ。・・・

 

 夢がかなわなかった人には、誰もマイクを向けません。/でも、私が聴きたいのは、そういう人の気持ちでした。どこにでもいるのに、誰も耳をかそうとしない、そういう気持ち。当人も心の奥底にしまっている気持ち。/文学だけは、そういう気持ちを描き出してくれます。/「あきらめてもいいじゃない」と肯定してくれる物語ばかりではありません。あきらめることを深く嘆く物語もあります。でも、嘆いているときには、嘆いている物語のほうが、心にしみて、なぜか救いになるものです。/病院で、痛くてたまらないとき、看護師さんが手を握ってくれると、それだけで、痛みがいくらかやわらぐ気がしました。/そういう経験をして以来、人の手というものは、私にとって特別です。/心にしみる物語にも、そういう手のような特別さがあると思うのです。