奇妙な星のおかしな街で

奇妙な星のおかしな街で (春陽文庫 よ 29-1)

 不思議な読み心地のエッセイ、面白かったです。

 

P123

 一度だけ、「カンヅメ」を経験したことがある。・・・

 簡潔に云うと、とある宿に閉じ込められて、ひたすら原稿を書かされた。

 このときの「とある宿」は、人里はなれたところにあり、周辺には見事に何もなくて、ずいぶんと歩いたところに郵便局がひとつあるだけだった。

 ようするに、原稿を書く以外、何もすることがないところで、そのうえ、シーズン・オフで宿泊客は自分ひとりしかいなかった。山と森に囲まれているので、窓を閉めたら空調の音しか聞こえない。さぞや、執筆に集中できるのではないかと思われたが、二泊三日をそこで過ごして、まったく一行も書けなかった。

 どうも、静かなところでは書けないのである。それで、普段からノートとペンを携え、どこか、外へ出かけて書くようにしているのだが、あちらこちらを渡り歩いて試しているうち、とある駅の構内にある喫茶店で書くのが、いちばん能率が上がるという結論に至った。

 以来、原稿はその店で書いている。なにしろ駅の構内にあるので、やたらに人の出入りが多い。店の中だけではなく、店の横を、ひっきりなしに乗降客が通り過ぎ、これから電車に乗る人と、電車から降りてきた人たちが、ちょっとコーヒーでも一杯、という感じで立ち寄っていく。

 どう見ても、せわしない状況なのだが、せわしない人たちというのは、考えようによっては、生き生きとしているとも云える。そうした見ず知らずの人たちの活気を、すぐ隣で感じていると、自分の頭も活気づくように思われる。少なくとも、しんとした所に幽閉されているより、脳が常に刺激を受けて、考えが停滞しない。

 とはいえ、隣の席に座った二人連れの客が、ときに楽しげに、ときに深刻に話を始めたりすると、刺激が強すぎて、ついつい話に聞き入ってしまう。

 ・・・

 こういうことがあった―。

 どう見ても、恋人同士と思われる二人が隣のテーブルで向かい合わせに座り、(さぁ、おしゃべりが始まるぞ)と覚悟していたら、男の方がカバンの中から大量のコミックを取り出してテーブルの上に積み上げた。女が黙って、積み上げた中から一冊を抜きとって読み始め、男も同じように一冊を抜きとって読み始めた。ひとことも話すことなく、取り決められた儀式のように、二人はひたすらページをめくりつづけた。

(よかった)と安堵して原稿に集中していたところ、突然、男の方が一冊読み終えたのか、「説明が多すぎる」と感想を述べた。

 思わず、ぎくりとなる。

 原稿を書いているときに、「説明が多すぎる」と云われることくらい冷や汗をかくものはない。いや、自分が云われたわけではないのだが、こうなると、そのたったひとことの感想が饒舌なおしゃべりより気になる。

 しばらくすると、女の方も一冊読み終え、「時間の無駄だった」と厳しい表情でつぶやいた。なんだか、いちいち「ぎくり」となるような寸評ばかりで、そのあとも彼らは、「つまらない」「作者のひとりよがり」といった酷評をつづけたが、さて、何冊目であったろうか、男の方が「これは、すごく面白かった」と初めて手放しで絶賛した。なんだか、我がことのように嬉しく、男が「面白かった」とテーブルの上に置いた一冊を横目で眺めて、書名を記憶した。あとで、そのコミックを購入したのは云うまでもない。

 こういうこともあった―。

 隣に座っていたのは、見覚えのある某劇団の座長と若い脚本家らしく、書き上がったばかりの脚本を座長がひととおり読んで、感想とアドバイスを述べていた。そのとき、こちらは書いていた小説がまさに山場にさしかかっていて、その先の展開を考えあぐねているところだった。

 すると、座長が隣でこう云ったのだ。

「犠牲者のいない物語は茶番になりかねない。でも、いたずらに犠牲者をつくるのは、なおさらいただけない」

 書いていた手が止まった。

 いまでも、ときどきその言葉を思い出す。

 そして、あの若い脚本家は、あのあと、どうしただろうかと考える。

 

P137

「騙されたと思って、一度、食べてみてくださいよ」

 と、ある人に云われた。

「ええ、そうですね」と生返事をして、別の話題になり、しばらく話したあとで別れ際に、

「ね、さっきのあれ、騙されたと思って」

 と、また念をおされた。

 とんかつの話である。

 なんでも、某駅から歩いて十分ほどのところに、じつにおいしい、とんかつ屋があるとのこと。こちらは特にとんかつが食べたかったわけではないし、とんかつなら、あの店かこの店、と吟味の末の行きつけがある。

 それに、「騙されたと思って」という云い方が、どうにも気になった。

 いつごろから使われ出した言葉なのだろう。話の流れで耳にする時は特に気にならないのだが、この言葉だけを切り取って、じっくり味わってみると、なんとも奇妙な云いまわしである。

 言葉を受け取る側から考えてみると、云うまでもなく、誰しも騙されたくはないわけで、そういう構えでいるところに、あえて「騙されたと思って」と、まだ起きていないことを過去形で仮定してくる。別の言語に翻訳するとしたら、どのようになるかわからないが、もう少しやわらかい日本語に翻訳してみると、「失敗をおそれず」ということになるだろうか。あるいは、「あまり期待をせずに」という意味でもあるだろうし、似たような言葉に「駄目で元々」という決まり文句もある。

 この「駄目で元々」というのも、じっくり考えてみると、おかしな話で、どうして元々からして駄目であると決めつけられてしまうのだろう。

「まぁ、どうせ駄目で元々なんだからさ」

 と、あっさり云われてしまったりする。そのうえで、

「まぁ、駄目モトと思って挑戦してみたらいいよ」

 と、かなり無責任な感じで背中を押されたりする。挙句、きわめつきの殺し文句があって、最後の最後に、

「失うものなど何もないんだから」

 とくる。

 おそらく、いったん自分の能力や守備範囲のようなものを下方修正し、そうすることで肩の力を抜いてトライせよ、ということなのだろう。しかし、こうたて続けに云われてしまうと、自分は基本的に駄目なヤツで、失うものをひとつも持っていない人間なのだ、とがっかりしてしまう。

「失うものなど何もない」というのは、かなり際どいセリフで、この手の、あえてマイナスなことをぶつけてくるセリフには、それなりに歴史があって、その最たるものが、

「当たって砕けろ」

 であろう。これに、ギャンブルの要素が加わってくると、

「イチかバチか」

 と、いよいよ切羽詰まってくる。

 あるいは、こうした言葉を総動員し、次のようなセリフを口にしたり耳にしたりした人もいるかもしれない。

「駄目で元々じゃないか。君は失うものなんてなにもないんだ、騙されたと思って、イチかバチか、当たって砕けろ」

 まぁ、ここまでオールスターで並べ立てることはないかもしれないが、これが人を鼓舞するときのセリフになっているのだから、おかしな話だ。

 とはいえ、何を隠そう、「騙されたと思って」というフレーズは、自分も何度か使った覚えがある。

 で、耳にする方ではなく、口にする方にまわってみれば、「騙されたと思って」と付け加えるときは、いまひとつ確信にまで至らない、少々の迷いがあるときではないかと思われる。

 まず間違いなく、そのとんかつ屋はおいしいのだけれど、「絶対」と断言するところまではいかない。きっと、「おいしい」と云うに違いないけれど、万が一、口に合わなかったときのことを考えて、「騙されたと思って」という云い方になる。おそらく、本来の云い方は、

「私を信じて、一度、食べてみてくださいよ」

 ではないかと思うのだが、このセリフにはまた別の問題があって、「この私が云うのだから」というニュアンスが含まれてしまう。そんな上からの目線を選ぶより、「騙されたと思って」と云うことで、同じ目線の親しさを強調しているのだろう。

 といった考察はしてみたのだが、件のとんかつ屋には、まだ行っていない。