テヘランのすてきな女 つづき

テヘランのすてきな女

 この方のお話も印象に残りました。

 

P150

 サタミサキ……ソウヤミサキ……。

 テヘランのコーヒーショップで突然飛び出した地名に、わたしは意表をつかれた。ハーニーエさんが「今年の春、日本を旅したんです」と言ったので、京都でも訪ねたのかと思ったら、

「サタミサキからソウヤミサキまで行きました」

 と続けたのだ。・・・

「えっ、日本を縦断したんですか」

「はい。4630キロ。88日かけて自転車で旅しました」

 ハーニーエさんは満面の笑みで言った。夫とふたり、2台の自転車で日本列島を疾走したという。・・・

「わたしたち日本を自転車で縦断した初のイラン人だと思う」

 そりゃそうだろう。途中で観光をしながらとはいえ、基本的には朝9時から夜8時までペダルを踏みつづけた。途中で開聞岳霧島連山、富士山など6つの山にも登った。超人か?

「北海道まで行ったあと東京に戻って、最後の2日間が忙しかった!横浜でボートの大会に出て、東京のホテルに戻って2時間だけ寝て、すぐまた自転車にまたがりました。富士山の登山口に着いたのは午前2時、そこから富士山に登って山頂着が昼の11時半。そのまま下山して、また自転車を漕いで真夜中に東京都大田区まで戻ってきました。翌日のフライトでイランに帰国しました」

 なんなんだ、その体力は。やっぱり超人だ。ハーニーエさんは軽やかな口調で旅の背景を語ってくれた。

 1982年生まれ。祖父と父がスキーの選手、弟は卓球のイラン代表選手というスポーツ一家だった。・・・

 ・・・

 ハーニーエさんは大学生になるとバイトしてスキー道具一式を買い揃えた。20代のころは父の反対を押し切ってガンガン雪山に登ったらしい。そこで登山をしていた夫と知り合い、ふたりは恋に落ちる。・・・

 結婚する前、ハーニーエさんは英語通訳として中国系企業で5年間働いていた。29歳で結婚するとき夫が言った。

「あなたはスポーツ選手になるべきだ。ぼくがサポートするから、仕事をやめてスポーツに集中してほしい」

 ・・・勤めから解放されたハーニーエさんは、家事のかたわらジムに通い、走り、泳ぎ、筋トレをした。

「母や弟は呆れてたわ。「今さら体を鍛えてどうするの。30歳を過ぎてからプロのアスリートになった人なんかいないよ」って」

 それでもハーニーエさんはトレーニングを続けた。夫婦でイラン31州すべての最高峰を登頂し、イランでいちばん高いダマーヴァンド山(5610メートル)には5回も登ったという。はー、なるほど、富士山に超特急で登れた裏にはその経験があったのだ。

 ・・・2018年ついにボートと出会う。すでに30代後半になっていたが、鍛えていたから筋力も持久力も並じゃない。カヤック教室でいきなり頭角を現した。・・・

 ・・・

 ・・・2022年にはカヤックからドラゴンボートへの転向を果たす。細長いボートを10人で漕ぐ競技はバランスよりパワーが求められるのでハーニーエさん向きだ、と見込んだコーチの読みは当たった。ハーニーエさんは国内大会でいきなり優勝し、ナショナルチームのメンバーに選ばれたのだ。

 イラン代表として挑んだ初戦はタイの大会。・・・

「ほかの国の選手はみんな髪を出して漕いでいましたよ。わたしたちはスカーフをかぶらなきゃいけないからたいへんだったけど、みんなで力を合わせて4位になれた。うれしかったー」

 ・・・

 ところでドラゴンボートには男女混合種目もある。でもイラン人は男女で同じボートに乗ることが禁じられているので参加できない、という話にのけぞる。

「えっ、海外のレースでもダメなんですか?」

「ダメですね。レース以前に、男性コーチが女子選手と同じボートに乗って指導することも禁じられています。わたしたちが川で練習するとき、コーチは土手を自転車で並走してます」

 苦笑いするハーニーエさん。そのあと続けた話はさらにびっくりで、わたしはのけぞるどころか椅子から落ちそうになった。

「タイの大会の次に、マレーシアで国際大会が開かれたんだけど……これはクラブチーム対抗の男女混合レース。わたし、ドバイの選手のふりをしてスカーフをとって出場したんです」

「えー!」

 イラン代表コーチは、ドバイのクラブチームでも指導していた。そのクラブを勝たせるため、有力選手のハーニーエさんをドバイの人に仕立ててレースに送り込んだのだ。乗組員は男子5人、女子5人の計10人、距離は300メートル。ハーニーエさんが紛れ込んだチームは、なんと優勝してしまった。

「ドバイのユニフォームを着て1位になっても全然うれしくなかった。わたしはイランの代表選手なのに、イランの国名が出せないなんて。だからもう表彰式で泣きました。思い出すたびに悲しい」

 ・・・イランの女性アスリートにかかっている負担は、他国の人間には思いもよらないことばかりだ。

 ハーニーエさんは顔をあげると、ふたたび口元をほころばせて言った。

「40歳でイラン代表選手になれたのは、すごくうれしいこと。できる限りボートを続けたい」

 ・・・ただ最後に小さく付け加えたことばがチクリと刺さった。

「引退後は、できればイラン以外の国でコーチになりたいな」