タイトルどおり、すてきな女性がたくさん。興味深く読みました。
P66
バザールの近くに250年前の建物を利用したハンマームがある。・・・
古今東西、女湯は女たちの解放区だ。日ごろ、女性が肌を見せずに暮らしているイランならなおさらだろう。・・・
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というわけで、わたしたちは週明けの午前中からいそいそとお風呂に繰り出したのだった(イランでは木金が週末で、土曜日から新しい週が始まる)。持ち物はタオルと石鹸、シャンプー、そして替えのパンツ。このパンツが重要だということをわたしはモロッコのハンマームで学んでいた。
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・・・以前モロッコに行ったとき、ハンマームにはパンツ一丁で入るのだと習った。・・・当然、パンツは汗まみれ垢まみれ石鹸まみれでぐしょぐしょになる。替えのパンツがないと、湯上りはノーパンで帰らなければいけない。ちなみに男湯でもパンツや腰巻は必須らしい。
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湯気であたたまりながら、ザフラーさんとおしゃべりする。イランでは結婚式前日にハンマームに親族が大集結する習慣があるという。
「花婿は男の親族と、花嫁は女の親族とハンマームに行きます」
「ザフラーさんも行ったことありますか?」
「田舎にいたときね」
ザフラーさんは11人きょうだいで、お姉ちゃんが7人もいる。女の親族全員集合のハンマームなんて、さぞにぎやかだろうなぁ。
「お風呂に入って、お茶を飲んで、お菓子を食べて、音楽をかけて、踊って……」
「え、裸で踊るの?」
「そうですよ」
「楽しそう!」
さらに、赤ちゃんを産んで10日目にハンマームに行くのが「ハンマーム・ダホム」。これは出産した人をハンマームに連れていってねぎらう儀式だとか。やっぱり女の親族が集まって、みんなで体をゴシゴシ洗って、お茶を飲んで、踊るんだという。
「赤ちゃんも連れていくのかな?」
「そうそう。赤ちゃんにとっては生まれて初めてのハンマームです」
ザフラーさんがテヘランで息子を出産したときは、田舎のお母さんがわざわざ上京し、ハンマームに連れて行ってくれたらしい。
「出産10日目で、踊ったの?」
「踊りまくった!」
わは、すごい。イランの人にとって、ハンマームは人生の節目を彩る大切な場所なのだ。
P98
レイラーさんの子ども時代のエピソードが最高だ。
「生まれたのは1972年。小学校に行くころには革命が終わって戦争が始まっていた。みんな黒かグレーの服を着て、暗い雰囲気でね。わたしは黒もグレーも好きじゃなかった」
小学校ではカラフルな服、派手な色の持ち物は禁止されていた。・・・小学校2年生のレイラーさんはある日、すごくいいことを思いついた。
「家にカラフルな絵葉書がたくさんあったから、それを学校にもっていって教室の壁に飾ったの。壁が色とりどりになって、クラスメイトはみんな喜んでくれた。でも先生に叱られて1週間の停学処分を食らった、アハハ」
小学2年生で停学になるなんて、窓ぎわのトットちゃんみたいだ。
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中学卒業後、まずはアートの専門学校に進んだ。・・・そこでグラフィックデザインの基礎を学び、念願の美術大学に進学すると伝統建築の修復を専攻。陶芸のクラスにも通った。大学の卒業制作で手がけたのは、古い絨毯のパッチワーク作品だった。
「バザールで、擦り切れた絨毯をたくさん買ってきてね。使えるところだけ切り取って組み合わせたら、ちゃんと建築になじむものができた。自分はこういうことがやりたいんだ、とよくわかりました」
・・・
・・・レイラーさんは自分の役割を「古くていいものを現代のセンスで蘇らせること。暮らしのなかで使える色鮮やかな美術品をつくること」だと決めていた。
「はー、教室に絵葉書を貼りまくった小学校2年生のときからブレてないですねー」
わたしが感嘆すると、レイラーさんは屈託なく笑って言った。
「でもぜんぜん売れなかったの。なにをつくっても売れなかった」
20代の大半は失意のまま過ぎていったらしい。6歳上のいとこと結婚し夫の稼ぎで暮らせたが、作家としては芽が出なかった。模索するなかで90年代の終盤からタイルを手がけるようになっていく。
「当時はイランのタイルなんて古くさい、地味な伝統工芸品だと思われていた。そもそもモスクとか大邸宅でしか使われていなかったし。わたしは若い人が住む小さなアパートでも使えるタイルがつくってみたかったの」
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「伝統的なイランのタイルには7色しか使わないというルールがあるんだけど、わたしはそのルールを無視して、つくりたいタイルを自由につくっちゃいました。ルールを守らないと売れないよ、とみんな言ったけど、わたしはぜんぜん怖くなかった。だってもともと売れてないんだから!」
わたしはその痛快な一文を急いでノートに書きとめた。「もともと売れてないんだから、怖いものなし」。開き直ったレイラーさんは、売れるかどうかは考えず自分が好きなものをつくっていく。そうしたら風向きが変わった。
レイラーさんのタイルに魅せられる人が続出したのだ。国内外の建築家や展示会、美術館から依頼が相次いで、ひとりでは捌ききれなくなった。夫にマネージメントを頼み、ふたりで会社をつくったとき、レイラーさんは30代半ばになっていた。
「売れる前もあとも基本は変わってないですね。同じものをずっとつくるんじゃなくて、つねに新しいアイデアにワクワクしていたい」
と言い切る表情がすがすがしかった。レイラーさんはこれからもずっと色を使って人を楽しませ続けるんだろう。
P128
たくさんの死をそばで見てきたマァスーメさんは生と死をどう捉えているのだろう。なんでも聞いてください、と言う彼女に質問してみた。
「お医者さんや看護師さんが一生懸命手を尽くしても亡くなってしまう人がいるでしょう。そういうとき「これは運命だったんだ」と考えるんですか?」
「えーと……運命だったとは考えないです。でも医者のせいでもない、本人のせいでもない。死はだれのせいか……ちょっと待って。ゆっくり考えないと」
そこでことばを切って、マァスーメさんは考え込んでしまった。メガネの奥の目が宙を見つめている。しばらくしてポツリポツリと語り始めた。
「今、わたしが担当する病棟に18歳の女の子が入院しているの。彼女は3ヶ月前に大学入試に失敗して、そのショックで急に脳が動かなくなってしまった。それまで元気に学校に通っていた子が、突然しゃべることも食べることもできなくなったのよ。目は見えていて、耳も聞こえていて、手も少しだけ動かせる。でもほかのことが全部できなくなってしまった。なんでそんなことが起こるのか……」
栄養を点滴され、気管切開で呼吸をしている18歳の女の子。百戦錬磨のマァスーメさんだが、この患者は想像を超えていた。初めて彼女に会った日は、仕事が終わったあともずっと頭から離れなかったとか。
「彼女を突然おそった不可解な事態を「これは運命だったんだ」とは割り切れない。だれも悪くない。人生はときに解釈できないことが起こるとしか言いようがない……」
マァスーメさんは静かにことばを重ねた。誠実な答えだった。人生はときに解釈できないことが起こる。自分自身に言い聞かせているようでもあった。
・・・
プライベートでは息子をふたり授かったあと離婚を経験した。シングルマザーになってからますます仕事に没頭したらしい。親戚の助けを借りて育てた息子は23歳と19歳になった。マァスーメさんの仕事熱はとどまることを知らず、現在は病院勤務と並行して、障害をもったご婦人のいるお宅に住み込んでいると聞いて驚いた。
「休みなく働いているんですか?」
「いえいえ、そのお宅で寝室を与えてもらっているから、毎晩ゆっくり寝ています。夜勤明けの日はお昼寝もするし」
・・・
「ご夫婦ふたりとも優しくて、自分の家みたいに居心地がいいのよ」
「どんな介護をするんですか」
「奥様は麻痺があるけどご自分で歩いたり食事したりできるんで、わたしが手伝うことは限られています。シャワーのサポート、薬の飲み忘れ注意、あとは話し相手になることかしらね。むしろわたしのほうが今日は病院でこんなことがあった、あんなことがあったって話を聞いてもらってるけど、フフフ」
自宅に帰るのは週1回で、あとの夜は住み込み先で過ごす。働き者だなぁ。夜勤明けにもうひとつの仕事場に向かうなんて、体力気力が尋常ではない。
「ICUを担当していたときに比べれば、ぜんぜん平気。それにわたし、看護師の仕事がほんとうに好きなのよ」
マァスーメさんはメガネ越しにこちらをまっすぐ見て、ふっとはにかんだ。
