生きるとか死ぬとか父親とか

生きるとか死ぬとか父親とか(新潮文庫)

 こういう方が身近にいると大変だと思いつつ、話を読む分には面白い・・・と思いました。

 

P88

「銀座百点」から執筆を依頼された。銀座の思い出を書いて欲しいという。昔から馴染みのある雑誌だったので嬉しかった。

 母は銀座が好きで、子どもの私を連れてよく通った。私は店内に置かれた「銀座百点」をパラパラとめくりながら、母の買い物が終わるのを待っていたように記憶している。甘くなつかしい時間だ。

 ・・・

 一か月後、エッセイが掲載された号が店々に並び始めたと聞き、父を誘って銀座へ出掛けた。あのころのように、店に置かれた小冊子を直接手に取りたかったのだ。

 ・・・

 高級店での客の扱いは言わずもがな、これまでに使った金額で決まる。昔どんなに上客だったとしても、継続性がなければ意味がない。蛇口を開けっ放しにして、水滴を滴り落とし続けられた者の勝ちだ。

 ・・・

 一見して豊かな生活をしているとわかる老夫婦が店に入ってくるのが見えた。夫は全身モスグリーンのグラデーションで、妻はモーヴの空気を纏っている。・・・

 ・・・

 もし、あのまま父の商売が上手くいっていたら。母がまだ生きていたら。私が子どもを産んでいたら。頭のなかにもしもの嵐が吹き荒れる。古いシャツを着て常連を気取る父とオドオドした私は、清貧から遠く豪奢にも手が届かない。

 沈んだ気落ちを弄ぶ私とは裏腹に、父は臆せず店員と談笑し、とっかえひっかえ帽子の試着などしている。

「たくさん持ってるでしょう?」

 私は居心地の悪さを父の背中にぶつけた。

 店員も父も、私を一瞥するとまた会話に戻ってしまった。チッと心で舌打ちする。所在なくガラスケースに肘をついたら、そこに「銀座百点」があった。サッと一冊鞄に入れる。万引きじゃあるまいし。今度は自分に腹が立った。

 ・・・

 店を出たところで父が口を開いた。

「お前に迷惑をかけるのが申し訳ないから、もうあの家を出ようと思うんだ」

 冗談はよしてくれ。あの家は私が百万円以上資金援助して一年分の家賃を支払い、昨年契約したばかりではないか。もっと小さい家に住むと殊勝な面持ちで言うのだが、また引っ越す方が金がかかる。これだけ無計画なら、そりゃあモスグリーンの老紳士になどなれるわけがない。

 とにかく引っ越しはやめてくれ、できることはするからと懇願すると、父の話はいつの間にかマンションを買えという話にすり替わっていた。なんだ、殊勝な話はマクラか。

 家賃が勿体ないから引っ越すという流れから、不動産を買えまでの距離は驚くほど短かった。この男の習性なら知り尽くしたと高を括っていたが、見事に最後まで聞いてしまった。悔しい。もちろん、買えるわけがない。山手線の内側に俺の住むマンションだなんて、そんなもの買えるかよ。

 夕飯には少し早かったが、いますぐ「銀座百点」が読みたいと父が言うので、ニュー鳥ぎんへ向かった。店に着くと、父はタレの焼き鳥セットと貝柱の釜めしをオーダーし、格子柄の表紙をめくった。背中を丸め、一生懸命読んでいる。父が週刊誌と新聞以外の文字を読むのを見るのは初めてかもしれない。なかなか新鮮な光景だ。

 焼き鳥が来ても、父は頭を上げようとしない。

「字が小さすぎるの?」

「違う。何度も読んでるの。ママが出てるから」

 憎たらしい、こちらを向こうともしない。

 そのうち串を手にしながら読み始め、案の定タレ付きのレバーをベチャッと誌面に落とした。しかも私の顔写真の上に。

「あーあ、やると思ったよ」

 父がようやく顔を上げ、私の顔を見ながら言った。お父さん、それは完全に私の台詞だよ。

 

P152

 父はすべての皿を平らげ、ハッピーバースデートゥーユーの歌声に乗せ出されたデザートプレートも堪能した。

 記念に三人の写真を撮ってもらい、「金はある奴が払う。お金の流れは一方通行!」との父の掛け声とともに私がお会計を済ませた。

 店を出ると、雨はまだ降り続いていた。なにかプレゼントしようと、父を連れミッドタウンへ入る。・・・

 二階に帽子専門の店があり、ひねりはないがプレゼント向きかと入店する。帽子ばかり大量に持っている父だが、裏を返せば帽子をプレゼントしておけば間違いはないということだ。

 ・・・

 父が壁にかかったひとつを手に取った。つばに癖のある白いパナマ帽で、リボンが巻かれる部分に黒色のストローでぐるりと刺繍が施されている。ほかではあまり見たことがないデザインだし、なかなか良いではないか。

 父は鏡の前に立ち、それを被った。

「ダメだ、負ける。この帽子は格好いいけど、俺が負ける」

 乱暴に吐き捨て、父はすぐにパナマ帽を脱いでしまった。よく似合っているが、納得いかないらしい。

 諦め切れないのか、父は脱いだり被ったりを繰り返し、その度に「負ける、負ける」を連発した。

 他の帽子もいくつか試し、渋い顔でまた白のパナマ帽に戻る。それをちょこんと頭に乗せ、くるりと私の方へ振り返る。

「欲しいのはコレ。でも、俺が負ける」

 負けるのがそんなに嫌なのか。

「別にいいじゃない。それでいいよ。似合ってる」

 私はクレジットカードを取り出した。

 我ながら親を甘やかし過ぎだ。父はとても嬉しそうだった。それは帽子を手に入れたことよりも、娘に支払いをしてもらえる喜びが生んだ笑顔のようで、当事者として照れ臭くもあり、他人事のように「良かったね」と思うことでもあった。

「嬉しいねえ。ありがとう、ありがとう」

 お会計を待つあいだ、父がへの字眉で繰り返す。

「情けない、しゃんとしろ!」

 カツを入れたら、父は真顔に戻りこう言った。

「あのね、偉そうに『ありがとうございます』って言っても駄目なんだよ。ちょっと情けない顔で言うと、相手は『良いことをしたな』と思うんだ。覚えときなさい」

 脳裏にのび太の姿が浮かぶ。さしずめ私はドラえもん娘だ。

 私の財布は四次元ポケットではないと喉まで出たあたりで、帽子の中折れに指を掛け、不敵な笑みを湛えた父が続けた。

「おい、今度はこの帽子に負けない上着を買わなきゃな」

 はっ。これだよ。

 

P157

「お父さん、大晦日に訪ねてきた人は?最近見ないけど」

「ああ、在庫を盗んで逃げたよ」

 父はこともなげに言った。まるで「お母さんは買い物へ行ったよ」とでも言わんばかりに。

 中学生の私にとって、これはなかなか衝撃的な出来事だった。あんなに仕事熱心に見えた人が不義理を働いたことも、平気な顔をしている父の態度にも納得がいかなかった。

 ・・・

 先日、久しぶりにこの出来事を思い出したので、父に詳細を聞いてみた。父はあのころと同じく、こともなげに言った。

「宝石屋はたいてい社員に在庫を持ってかれちゃうんだけど、あいつは名簿も盗んでいったんだよな」

 ・・・

 ・・・あのいけ好かない男以外にも、騙されたことはあったのかしら。

「そうねぇ、株だな」

 父が答えた。株、ねぇ。

 精神的番頭とも言える母が亡くなり、我が家の経済状況はゆるやかに悪化していった。いくつか手を出した貴金属以外の商売が赤字続きになったのも大きいが、最後の一撃は父の株取引だったことに間違いはない。

 通常の売買では飽き足らず、父はベンチャー企業の未公開株とやらをじゃんじゃん買い漁った。しかし、どの企業も終ぞ上場することはなかった。・・・騙されたというより、間抜けな慈善家である。

 そのころには貴金属以外の商売の赤字、つまり銀行への借金も優に億を超えていたようで、なぜもっと手前で退けなかったのかと父をなじる。すると、父は大袈裟に声を作って言った。

「お金ってねえ、目に見えてなくなっていくわけじゃないのよ。少しずつ少しずつ減っていって、気付いたら手が打てないところまで行ってるの」

 ・・・

 そもそも、母のサポートで父の商売は軌道に乗った。その結果、ひとり娘の私は十分にお金をかけて育ててもらった。それには感謝している。やがて父はスッカラカンになり、私生活を晒す代償として、この原稿料をまるまる娘から受け取っている。

 薄々気付いてはいたが、やはり父が成功した唯一の投資は「女」だ。先行投資した分が見事に利息を生んでいるではないか。この嗅覚を株取引に活かせなかったのが残念で仕方がない。見込んだ女はすべて黒字を生んだのに、株はまるで駄目だった。

 悔しさを顔に滲ませた娘とは対照的に、父はのんびりこう言った。

「老い先短いいまになったから思うけど、パン・アメリカンのスチュワーデスだった彼女と、『ミス住友』って言われてた年上の彼女はどうしてるかなぁ。死ぬまでにもう一度会いたいんだよねぇ。探してくれない?」

 ご勘弁!どれほど投資したかは知らないけれど、回収するのは頭のなかの思い出だけにしてくれたまえ。

 女たちの姿を想像してもまるでイメージが湧かないが、彼女たちが父に会ったら相好を崩し喜んで世話をする姿だけは、なぜかハッキリと頭に浮かんでくる。

 

P224

「おい、いいニュースと悪いニュースがあるぞ」

 本当にそんな台詞を吐く人がいたなんて、と面喰らう。

「なによ」

「どっちから先に聞きたい?」

「いいから早く」

「まずはいいニュース。借金の整理が付いた。六十万で手が打てることになった」

「は?確か四億あったでしょう?」

「それが六十万になったんだよ。すごいだろ」

「確かにすごいわ」

「だが俺はその六十万円が払えない」

「なるほど、悪いニュースだ」

 だったら分割にしてもらえと伝え電話を切ったあと、銀行へ出向き自分の口座から三十万円ほど引き出す。私はとことん父に甘い。甘すぎる。備え付けの封筒にお金を入れながら、一度は真剣に縁を切ろうとした相手になにをしているのかと、自分に呆れた。

 ・・・

「これなに」

「全額は無理だから、三十万」

 こんなにもらえない、そんな無理はしなくていい、恵んでもらおうとしたわけじゃない、などなどなど。つらい言葉が父の口を衝いて出ないよう、大雑把に伝えた。

 が、しかし。

 敵は何枚も上手だった。父は明るい声で「ありがとう!」と言うやいなや、ヒョイと自動改札を抜け向こう側へ行ってしまった。・・・

 この人には一生勝てない。勝てるわけがない。

 後に、父は言った。

「現実は見栄を超える」