ご自身が高次脳機能障害になって実感できた、以前取材した方々の困難を、なんとか伝えようとしてくれている本、参考になりました。
P11
彼らは頑張っていた。必死に努力し、足掻き、それでもできない自分を責めつつ、生き抜こうとしていた。にもかかわらずその水面下の足搔きは外から見て理解できるものではなく、だらしなさや責任感や主体性のなさばかりが目立って感じられ、必然的に彼らは働く力と場を失い、貧困へと転がり落ちていたのだ。
どうしてそれを、わかってあげられなかったのだろう。その困った言動の底にどんな症状とどんな心理があるのかを理解せず、ただただ記者業の義務的に「なぜ?」を封じたのは、本末転倒だった。その「なぜ?」の解像度を上げることこそが、彼らに対する自己責任論払拭のキーだったからだ。
自戒も込めて、改めて、提言したい。
貧困とは「不自由な脳」(脳の認知機能や情報処理機能の低下)で生きる結果として、高確率で陥る二次症状、もしくは症候群とでも言えるようなものなのだ。
P65
後悔がつのる。
なぜかつての僕は、取材対象者らの不自由の訴えを、もっと真剣に掘り下げて書こうとしなかったのか。
うつや発達特性のある当事者が疲れやすいとか、自閉症の当事者は突然スイッチが切れたように脳が疲れて頭が回らなくなるなんてことは、当然知識として知っていた。けれど、取材対象者らが切々として訴えたことと、それらの症状を紐づけようとは、思ったこともなかった。
彼らは「それが苦しい」「それによって困っている」(働くことに支障が出ている)と言っているのだから、僕はストレートにその苦しさを聞き取り、書くべきだった。
だが、そのことは、社会全体にも言えることだ。
発達障害の当事者がよく言うことに、できることとできないことの間に、「何とかできないことはないけれど、そこに激しい疲れが伴う」があるという言説があるが、その「何とかできないことはない」の水面下にどれほどの努力があり、どれほどの不可能感の中で彼らが生きているのかは、健常の脳の持ち主には想像もつかないし、健常者にそれを伝えようとするアクションを僕はあまり目にしたことがない。
・・・多くの当事者が「脳の疲労こそが就労継続が困難な主たる理由」として声にしているにもかかわらずだ。
明らかに、この見えない不自由は、社会ではスルーされてきた。
さらに問題なのは、単にスルーされるだけではなく、この脳性疲労という特性が周囲の健常脳の者たちからの「差別と攻撃の種」になりがちな点だ。なりがちと言うか、「なるのも仕方がないなあ……」と、元健常者である僕は思う。
・・・
理解困難な「できるとできない」については、他にもたくさんのポイントがある。
例えば、午前中であれば1時間ですんなりできた作業が、全く同じような作業にもかかわらず午後になったら一向に進まないといった「日内変動」。
同じく、昨日は1時間で終わった作業が、今日になったら朝から夕方までずっと取り組んでいるのに全く進まないといった「日差変動」。
日差変動の中には、昨日は夜まで頑張って作業ができていたのに、今日は朝起きた瞬間から脳のエネルギーが枯渇していて、もうパソコンに向かうだけで精いっぱいという日が月に数日あることも含む(僕の場合、特に気圧の乱高下がある時)。
はたまた、呂律も回らず思考判断もできず手も膝も震えるような脳性疲労状態でも、そこからジョギングしろと言われたら普通に走れるといった「脳の疲れと身体の疲れが全く別物」という特性もある(これは近しい障害の当事者でも「自分は違う。自分は脳が疲れたら身体も全く動かない」という声もあるが……)
もうおわかりだろう。
そう、最大の問題は、他者がこの状況を見た時、「できる時」を見た後に「できない時」を見て、どう思うかだ。
この状況を目の当たりにした健常者がまず当然感じるのは「こいつサボってる、やる気がない」なのではなかろうか。
昨日10時間の動画編集をやれていた人が、今日は朝一番の30分のメール返信で机に突っ伏して倒れている。
さっきまでできていた、昨日はできていた作業を、だらだら長時間やって全く進められない。
呂律の回らない口で「もう限界です」と言っていた者が、ジョギングして家に帰っていく。
天気が悪いからと言って、朝からパソコンに向かってフラフラ焦点の合わない目をして作業が一向に進まない。
「おまえさ、さすがにそれは、サボりだろ。仕事なんだから、ちゃんとしろよ。集中しろよ。弛んでるんじゃないの?せめて定時まで、就業時間中ぐらいは、気合入れて働けよ」
健常者時代の僕だったらそう思っただろうし、共に仕事をする相手としては間違いなく「戦力外カウント」していた。
元健常脳で20年以上働いてきた者として、断言する。間違いなくこの特性は、特に仕事の場では、周囲の健常者による差別と排除に直結する。
これが、脳性疲労のリアルだ。
P103
・・・過去の貧困当事者の取材の中で「彼らの共通点」として僕が認識していたことの中には、会社やバイトの「バックレ退職率」が異様に高いことが含まれていた。
思えば中には「心配した職場から捜索願を出された」という笑い話もあったし、様々な責務があるのをぶん投げて「飛ぶ」(失踪する)ケースもザラだった。もちろん、僕に対しても取材の約束を反故にして音信不通になることが頻繫にあった。
けれどおそらく、それは彼らの無責任なパーソナリティに起因するものではなかったのだ。
働く上で、他者との関係性や利害関係を築いていく上で、自身でも理解が難しい様々な「できない」が増えていく時、そこには混乱や仕事上のパートナーたちに対する申し訳なさ、自罰感情、自己効力感の喪失が伴う。さらに、その「できない」を伝えられない、理解してもらえない結果にあったのが、ドクターストップに至るような心身の追い込みであり、最終的には「自己防衛としての」バックレ退職や失踪だったのだろう。
P106
・・・ここで改めて深掘りしたいのは、この「脳が不自由ゆえに働けない」という状況が、健常者から見てなぜそれほどまでに理解が難しく、なぜそこまで当事者が差別や排除、攻撃のターゲットになってしまうのかということだ。
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それはまず、・・・そもそも健常者には想像もつかない(未経験の)圧倒的不可能感を伴う不自由だということ。そしてそれとは全く逆に、その不自由が「健常者にも思い当たりのある不自由の延長線上と、とらえられがちだ」ということだ。
つまり、当事者がどれほど不自由を訴えたとしても「そんなのみんな同じだよ。誰だって同じような不自由を感じながら頑張ってるんだよ」と、訴えを切り捨てられてしまう。不自由を軽視されてしまう。・・・
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断言するが、違う。
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忘れっぽいのではなく、必死に憶えておこうにも、どうしても頭のノートに憶えておきたいことが留め置けない。気が散るじゃなく、周囲の環境情報に思考を妨害され続けている感覚。「苦手」や「難しい」のレベルではなく「どれほど頑張っても不可能」のレベルだから疾患であり障害なのだが、見えない不自由の定量化は難しく、往々にしてプロの支援職や医療職からすら見過ごされる。自助努力で足搔きまくれば「何とかできなくもない」レベルの当事者は、診断からも漏れ、完全に壊れるまで周囲からも自身からも追い詰められる。
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「サボっている・気合が足りない」としか思えない勤務態度。約束の時間を守らず、仕事は遅く、請けた仕事なのにやり遂げられず、その状況にまともな弁明もせずに、説明もなくバックレ退職する。
本章で書いた当事者像は、もはや社会人失格どころの騒ぎではない姿だが、その背後で、どれほど努力しても足搔いてもその状況になってしまう症状と不自由がある。そしてそれは、可視化されず健常な者から誤解され差別と排除を極めて受けやすい。
脳が不自由とは、何と理不尽で絶望的なのだろうと思う。
だが、嘆いてばかりはいられない。
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まず当事者に伝えたいのは、先天的にその脳なのであれ、僕のように後天的にそうなったのであれ、「自罰しないでほしい」、自分を不必要に責めないでほしいということだ。
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また、特に後天的にこの脳になった当事者は、自身の不自由に混乱しないでほしい。確かに信じられないほど当たり前のことにつまずく自分に戸惑い絶望するかもしれないが、まず最も大切なのは、それが「何かの症状ゆえに起きている不自由だ」ということに気づくことだ。
