光る夏 旅をしても僕はそのまま

光る夏 旅をしても僕はそのまま 鳥羽和久 C

 著者と、各地で出会った人々とのやりとりが、とても興味深かったです。

 

P77

 この日の午後、僕はコロンボ在住で建設業を営む日本人男性の紹介で、現地で有名な「社長」に会った。待ち合わせの場所は、ブレンドコーヒーが一杯六〇〇円もする外資系のカフェ。周囲の町の様子からは明らかに浮いていて、まるで外国みたいだ。社長はアフリカ系の顔立ちで、いかにも社長然とした威厳を漂わせながら僕の前に現れた。日焼けした巨漢の彼を前にすると、自分の身体がとても小さく頼りなく感じられる。

 彼の家系はスリランカ政界の大物を多数輩出し、さらに東京でも十店舗以上の飲食店を経営しているという。かつての遊び仲間には安室奈美恵フジモンらがいるそうで、社長は携帯をパカッと開いて、「こんなの俺にとってはフツウのことだけど」といった風情で、彼らと豪遊したときのツーショット写真を見せてくれた。写真を見せることで社長がどんな効果を狙ったのかは知らないが、僕はこのせいで彼のことを俗物じゃんと思った。安室奈美恵もこんな芸能界じゃ楽しくないよね、などと余計なことまで考えた。彼は現在、ネゴンボで高級日本料理を提供するホテルの建設を進めている。これも写真を見せられたが、やはり俗っぽい感じだ。

 社長は日本での経営は順調だが、スリランカ国内の事業ではかなり苦労しているとのこと。

スリランカでは医療も教育も無料。生きるだけなら、衣食住を含めほとんどお金がかからない。だから働く意欲がない人間が多いんだよ。仕事で少しでも嫌なことがあったら、翌日から来ない。注意なんかしようものなら、謝罪やフォローを入れてくれるどころか、二度と連絡がつかなくなって仕事を放り出される始末だ。時間や約束、契約の概念が通じない。平気で嘘をつくし、何でも先延ばしにするから、ビジネスがまったく進まない。ネゴンボのホテル開業の準備だって、まともなスタッフがいなくて本当に苦労してるんだ」

 ・・・

 社長は続けて言った。

スリランカ外資系がなかなか進出できない理由を知ってる?人間がまったく使えないからだよ。嘘を嘘だと思ってもいない人間に、話が通じると思うかい?俺はいつでもいい車に乗りたいと思っている。でも、ここには自転車からさえ降りたがっているような連中が多いんだよ」

 二つの国で人を雇用している彼は、ため息混じりにそう言った。小さく舌打ちするような音さえ聞こえた気がしたが、僕は「自転車からさえ降りたがっている」という彼の喩えをやたらと面白く感じて、顔が緩んでしまっていたかもしれない。彼への共感がまったく足りない。

 ・・・

「まあ、嘘は俺もつくけどね。それがビジネスだから」

 社長はそこでニヤリと笑う。その表情がいかにも悪そうで、僕はフフフと笑ってしまう。彼はきわめて現実的な人間だけど、ある意味では真っ当だ。厳密に言って、嘘がまったくないビジネスなんておそらく存在しない。嘘が嘘だと分かってやっているということが、ビジネスをやりくりすることの核心にあるというのは言い過ぎだろうか。

 僕がいまの日本のシステムに限界を感じるのは、それが嘘や誤謬を決して認めようとしない、ある種の不寛容さに向かっているところにある。過剰な潔癖さは人間をダメにする。その結果、システムが機能不全を起こし、かえって効率が悪くなることに多くの人は気づいていない。だからこそ、現代のシステムに抵抗するという行為は、単に管理会社からの自由を担保するためにあるのではない。逆説的だが、システムそのものを生かすための知恵としての抵抗が存在する場合もあるのだ。

 

P159

 タクシーは夜のブライトン駅に向かって滑るように進んでいく。・・・運転手のサイモンは相変わらず陽気で、彼の声は車内に流れるラジオの音楽よりも軽快に響いていた。

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「パブで酔っぱらった連中がバカ騒ぎして、観光客は飽きもせずカモメの写真ばっかり撮ってさ。それがブライトンって街だよ。でもね、不思議なもんだ。今じゃこれ以上の街はないと思ってる」

 彼は人生を嚙みしめるように話している。

「それでも若い頃は、そんなふうには思えなかった。俺はもっと大きなことをしたかったんだ。民主主義を、もっと理想的なものに変えてやろうと思ってね」

「政治に興味があったんですか?」と僕が訊くと、サイモンは軽く頷いた。

「政治だけじゃない。当時は絵や詩作にも夢中だった。それが自分の理想を実現する手段だと思ってたし、将来の自分を育ててくれると信じていたんだ。自己表現と民主主義が双生児のような時代があったのさ」

 そう言って彼は短く笑った。

「理想のためなら何でも試したよ。でも、結局それは若気の至りだったわけさ」

「でも、それが今のあなたを作っているんだから、無駄ではなかったですよね」

「もちろん、無駄じゃない。ただ、ある時気づいたんだよ。何かを「残す」ことに執着し始めると、むしろそれが自分の足枷になるってね」

 彼の言葉には妙な説得力と、苦みを帯びたユーモアがあった。・・・

 ・・・

「ところで、君は何をしてる人なんだい?」

「自分で立ち上げた子どものための教育支援の場を運営しつつ、作家をしています」と答えると、サイモンの顔がぱっと明るくなった。

「おお、それは面白い!作家か!」

 ・・・

「いいね、作家って響きが最高にクールじゃないか。俺も若い頃は詩を書いてたんだ。自分で言うのも何だけど、あれは中々のもんだった!」

「でもな……」サイモンはしばらく考え込んでから、言葉を続けた。

「今の俺はね、何かをつくること、アクションを起こすこと、そのどちらにも興味がない。どれも結局、人間を縛りつけるものになる」

 ・・・

「労働は人間をモノみたいに扱う。だから、「つくること」が労働への抵抗になるのも分かる。でもさ、「人間的価値」とやらを、何かを生み出したりリアクションを起こしたりすることに置き続ける限り、結局俺たちは何も変わらないんだ。「人間としての価値」とやらを真顔で言う奴らのことは、疑ってかかった方がいい」

 駅に近づくと、サイモンは軽く口笛を吹きながら車を停めた。・・・

「あの逆方向に行った分はチャージしないよ。迷惑をかけちゃったからね」

「いや、あのおかげですばらしい景色に出会えたんだから。むしろ感謝したいくらいですよ」

 僕の言葉にサイモンは大きく笑って、「人生ってさ、間違った道に迷い込むこともあるだろ。でも、そういうときに思いがけないものに出会えるんだ」と言った。・・・

 

P188

 サニーさんはハワイ人の聖地であるイアオ渓谷と、マーアラエア湾沿いのビーチに連れていってくれた後、自宅のあるキヘイまで僕らを案内してくれた。・・・

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 福岡出身のサニーさんが、どういう経緯でマウイ島で暮らしているのか気になって、僕はあれこれと尋ねてみた。

 

 もともとは消防士だったんですよ。・・・二年後にはレスキュー隊になりました。それから十年間、嫌というほど現場に立ち会いました。・・・そこで僕は、多くの人間の最期を見ました。そういう場所に立つたびに、自分は無力だな、僕はこのままで本当にいいのか、もっと根本的に人を助ける方法はないかって考えるようになったんです。

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 アメリカで働いてみたいと思ってニューヨークに渡ったけど、消防士は市民権がないとなれないって、後になって気づいたんですよ。それで救急隊員に切り替えて、必死に医療英語を覚えました。でも、人種差別なんかもあって、正直行き詰まりを感じていました。そんなとき、たまたまテレビで見たハワイの太陽があまりにも眩しくて……。気づいたらニューヨークを出てましたね。そして結局、こうしてマウイで暮らしています。ダイビングの仕事をしながらネットの時代に乗って「マウイの達人」を立ち上げたら、何とかなった。そして、人の幸せということをもっと根本的に考える態度を、ここで学ぶことができている。人生なんて本当に分からないものです。思いもしなかった方向に転がっていく。今は牧師として、困っている人たちの話を聞くこともあります。

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 サニーさんは相変わらず百パーセントの笑顔だ。その笑顔には、人々を守り支えようとする強い意志が宿っていることに気づいた。彼には僕の何倍もの体力と精神力が備わっていて、その存在感には独特のすごみがある。僕はこれまでそんな人を知らなかったし、そんな種類の笑顔も知らなかった。・・・

「今度泊まるなら、キヘイがいいよ」と言われて、次はそうしようと思う。・・・ハレアカラで一緒に行動したときも含めて、彼には何一つ嫌なところがなかった。何一つないのはすごい。