自分とか、ないから。 つづき

自分とか、ないから。 教養としての東洋哲学

 つづきです。

(図や絵を載せられないので、一部少しわかりづらいかもしれません)

 

P150

 ・・・これから紹介する中国の哲学は、インドの哲学とおどろくほど似ている。

 インドで「空」の哲学がうまれて、

 中国では「道」の哲学がうまれた。

「道」もまた、「空」とおなじように、

「この世界はフィクションだ」

「すべてのものはつながっている」

 という哲学なのだ。

 だいたい一緒なことをいっている。

 ・・・

 でも、同じようにみえるインドと中国の哲学には、ひとつ、ものすごく大きな違いがある。

 ゴールが正反対なのだ。

 どういうことか。

 インドの哲学は、「この世界はクソ!」だと思っている。

 もう二度と生まれかわりたくない。

 この世界から「解脱」するのがゴール。

 一方、中国の哲学は、「この世界はサイコー!」だと思っている。

 だから仙人みたいにめっちゃ長生きしたい。

 この世界を「楽しむ」のがゴール。

 あくまでざっくりね!

 だから、中国の「道」の哲学からは、「どうやったら人生がうまくいくか」という、処世術もみちびきだせちゃうのだ。

 

P169

 この世界を「夢」とみる「道」。

 この世界を「幻」とみる「空」。

「道」と「空」はにている。

 しかし、「道」の哲学がすごいのは、ここからだ。

「空」は、現実世界のあらゆる価値を否定するが、

「道」は、現実世界での勝ちかたを教えてくれるのだ。

 ・・・

 老子は、こんなことをいっている。

 

「無事を以て天下を取る。」  老子「道徳経」57章

 ―変なことをせず、ありのままでいれば、天下を取れる。

 

 これはスゴい発言である。

 ・・・

 ありのままこそが「最強」だ。天下をとれる。と、老子は言いきったのだ。

 そんなことある?もう一つ老子の言葉をみてみよう。

 

「天下の至柔は、天下の至堅を馳騁す。」  老子「道徳経」43章

 ―世界で最も柔らかいものが、世界で最もかたいものを支配する。

 

 いったい、どういうことなのか?具体的にみてみよう。

 この世界で一番つよい存在「アメリカ」を例に、ひとつかんがえてみよう。

アメリカより強いのは、誰だろうか?」

 ・・・

 この質問に、老子なら、こう答えるだろう。

「海」

 老子は、ちょっと次元がちがうのだ。

 どういうことか説明しよう。

 老子は、海のことを百谷の王(老子 道徳経 66章)と表現している。

 海は、なにもしない。

 ただ、いちばん低いところにいて、すべてを受け入れている。

 ぼくらのシャワーとか、なんならおしっことかも、みんな海にながれていく。

 すべての川は、海につながっているのだ。

 海は、争わない。

 アメリカも、海を「敵」だとおもっていない。

 でももし、海を滅ぼしたら、困るのはアメリカだし、そもそも滅ぼしようがない。

 

 いちばん低いところにいるのに、いちばん強い。

 そもそも争いにならないから、「敵」がいない。無敵なのだ。

 

「道」の哲学はスケールが大きい。

「勝つ」というとき、ぜんぜん次元のちがう答えをだしてくれるのだ。

 

P285

 東洋哲学にはある意味、「弱点」がある。

 世界のフィクション性をみやぶりすぎて、無職になりがちなのだ。

 空海は、その「弱点」を克服している。

 東洋哲学をきわめていながら、ダムとかもつくる。

 政治にもかかわっていた。めちゃくちゃ社会的なのだ。

 空海のすごいところは、ドロドロの政治のど真ん中にいながら、誰ともケンカにならず、仏教の精神で生きつづけたことだ。

 妖怪だらけの政治の世界にいながら、「空」を体現する。

 どうやったらそんなことが可能なのか?

 その秘密は、まさに空海のつたえた「密教」の哲学にあったのだ。

 密教は、「社会」にめちゃくちゃ肯定的なのだ。

 ・・・

 子供のころを、思い出してほしい。

 世界はいまよりずっと、「ふしぎ」で、輝いていたはずだ。

 でも、大人になると、世界が「フィクション」の雲でおおわれる。

「ふしぎ」を失った世界だ。

 

 いつもと同じ部屋をでる。

 いつもと同じ道をとおる。

 いつもと同じ会社にいく。

 いつもと同じ人とはなす。

 

 しかし、「いつもと同じ」というのは、フィクションだ。すべて、一瞬一瞬変化している「ふしぎ」なのだ。

 ・・・

 ぼくらが、気づけないだけなのだ。

 

 衆生は無明妄想をもって本性の真覚を覆蔵する。 『弁顕密二教論』第二章 第四節

 

 ―ふつうの人は妄想によって、さとりの世界を、自分でかくしている。

 

 「自分」や「世界」というフィクションからぬけだして、「生命の秘密」と一体化しよう、というのが、密教である。

 密教は、「禅」とくらべると、おもしろい。

 禅と密教は、おなじ仏教だけど、みてるところが正反対。

 禅は「死」、密教は「生」にフォーカスがある。

 たとえば、この問いにたいして、どう答えるか?

 

「本当の自分」とはなにか?

 

 禅の回答はこれ(↓)である。

 そんなもん、ない。からっぽだ。筆でぐるっと一周、〇をかく。「円相」という。

 禅のお坊さん、「なんか書いて!」ってお願いされたら、これ書きがち。

 一方、密教はどうだろうか?

「本当の自分」とはなにか?

 答えはこれ(↓)である。ドーン!

 なんじゃこれ‼ブッダだらけ⁉

「マンダラ」と呼ばれるものだ。

「マンダラ」は「本当のあなた」を表現したものだよ。

 といわれて、どうおもうか?

「どこが?」

 としか言いようがないだろう。

 禅の〇が「本当のあなたです」っていわれたら、「深いっすね…」とかえせる。

 でも、マンダラ。尋常じゃない雰囲気だけど、一体なんなのか?

 じつは、マンダラこそが、「生命の秘密」の姿をえがいたものなのだ!

 ・・・

 すべてが「空」、フィクションであるという哲学は、禅も密教もかわらない。

 ただ、密教は、「空」のさらに「奥」をみようとする。それが「生命の秘密」なのである。

 

P308

 ブッダは、「無我」といった。

「自分」は「フィクション」だ。

 空海は、「大我」といった。

「自分」が「フィクション」なら、逆に、どれだけデカい存在にもなれる!

「無我」だからこそ、「大我」になれる。

 ・・・

 ・・・空海のいう「大我」は、・・・「大日如来」だ。

 最高にスケールがでかい。

 ・・・

 では、じっさいに大日如来に「なりきる」方法をみてみよう。

 大日如来と、

「身」…同じポーズで

「口」…同じ言葉をつかい

「意」…同じ心をもつ

 である。

 これを「三密」という。

 ・・・

 まず大日如来と「同じポーズ」って、なんやねん。知らんやん。

 ここで、密教は「象徴」をつかう。

「これが大日如来のポーズ」という、いわば「お約束」がきまってる。

 ある「手のかたち」をすると、大日如来と「身」が一致すると考えるのだ。

 ・・・

 大日如来の手の形、は「智拳印」という。

 人差し指をたてている左手が、「人間世界」の象徴。

 指をつつみこんでいる右手が、「仏の世界」の象徴。

「仏と人間はひとつやで!」という意味がこめられている。

「印」をつくることで、大日如来の「身」になりきっている、と考えるのだ。

 ・・・

 次は、「口」パート。

 ・・・

 どうすればいいのか?

 ここでも、お約束が決まっている。

「オン バザラダト バン」と唱えるのだ。

真言」とよばれる。いわば呪文だ。

 ・・・

「身」「口」、ときて、最後は「意」。

 大日如来と心を一致させる。どうやるか。

 正直にいおう。わかんないです!

 これ、密教の修行をするひとにしか教えてもらえないのだ。

「印」も「真言」も、一般人には秘密のものがたくさんあるらしい。

 でも、一般人にもできる「心の一致」がある。

 大日如来の姿を、心に思いえがく。シンプルや。

 ・・・

「象徴」はおもしろい。めっちゃフィクションだ。

 でも、「現実」というフィクションをうちやぶる、最後のフィクションだ。

 いっけん「子供っぽい」方法にみえる。

 でも、考えてほしい。

 ・・・

「子供っぽい」ということは、子供がやっちゃうくらい、人間にとって根本的なパワーがあるってこと。

 子供のような純粋さで、大日如来に「なりきる」ことのパワー、ぜったいすごい。

 

 空海は、マンダラの世界を、こんな言葉で表現している。

 

 秘中の秘、覚中の覚なり。  『秘蔵宝鑰』巻の上 序文

 ―秘密のなかの秘密、さとりのなかのさとりだよ。

 

 とにかく、なんかスゴい、ということだけはわかる。・・・