こちらの↑本の復刊版「河合隼雄語録 カウンセリングの現場から」(岩波現代文庫)を読みました。
なぜか検索してもそちらが出てこなかったので、元の方を挙げました。
(なのでページ数はおそらく違うと思います)
内容は、1974年~1976年にかけて京都大学で行われた事例検討会での、河合隼雄さんのコメントをまとめたもの、ということなのですが、ケースの説明が何もないにもかかわらず、たくさんのことが伝わってきて驚きました。
P30
僕が思うのは、結局心と体というのは関連していて、自我っていうのは、心と体の両方のコントロールできるんですね。で、心も身体も一つの全体として動いているわけね。で、全体としての動きの中で、自我をもっているというのが人間の非常におもしろいところであるわけなんだけれど。ところが自我の方の動きがあんまり強くなりすぎるとね、体とハーモニーしなくなる。つまり、心的に頑張ろうとしすぎると、休息という、こちらを忘れてしまう。あるいはあいつに負けないようにしようと頑張りすぎて、結局はリラックスできなくなるということが起こってくるわけです。そうするとこういう言い方ができるわけです。つまり我々サイコセラピーやってる者は、この自我を弱めてこの全体としてのハーモニーというのを取り返すのがセラピーということだ、ということです。
P78
僕が言いたかったのは、深刻に話を受け取る、深刻になるならないというより、人生はどうせ深刻だから、こちらがそんなに深刻にならなくてもいいということです。要するに「ハアハア」と言っていてもいいわけです。セラピストが同情しなくてもいいと思うんです。そんな苦労したって当たり前なんです、人生というものは。ところがセラピストが同情するから、他の人にすれば、ちょっと違うこと、まあ理屈でも言いたくなるんでね。もっと同情しない受容、厳しい受容というのを考えないといけないと。だから、別の言い方で言えば、深い次元にいけばいくほど、クライエントの苦労も僕の苦労も何も変わりはないんでね。「生きる」という次元にもっと深く入れば何も変わりありません。だから、あなたも、私も、同じ人間です、というレベルで受け取ったらいい。
P130
そういう、自分が共感できないとか、あるいは自分の生きざまが問われるようなクライエントが来たということは、自分がそれを考えなきゃならないときが来たと思うことですね。自分もものすごく考えて本を読まないといけませんね。僕がよく言われたのは、おまえが仕事しなきゃいけない、ってことをすごく言われました。例えば同性愛なら同性愛の人が来て、共感できないってことは、僕の仕事が足らないわけでしょ。だからそんなときが来たらセラピスト自身の仕事がいるわけで、自分なりにものすごく考えなきゃなりません。で、言いようによると、クライエントっていうのは、小学生でも中学生でも、「じゃあ、おまえはなぜ生きているのか」というくらいの迫力をみんなもっているわけだからね、実際。それで僕らは鍛えられなかったら話にならない。ただおもしろいことに、それに対する直接的な解答を僕ら用意する必要はない。それはできるものでもないし、そういう商売でもない。
