前著が興味深かったので、こちらも読みました。
P3
僕が二〇二〇年に、安楽死を求めた若い二人の物語をつづった『だから、もう眠らせてほしい』(晶文社)の公開、そして書籍化から四年が過ぎました。
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しかし国内では、安楽死制度は一部の市民から熱烈にその成立を求められ、それに賛成する声も多い中、国民的議論としてはほとんど進展をみせていません。
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では、どのように議論を組み立てていくのがベストなのでしょうか?
それは、安楽死制度の議論を行うとき、「もし未来に安楽死制度を作るならば」という前提からスタートすることです。
安楽死制度に反対する理由としての「日本には安楽死制度は必要がない」という見解は、先に述べたように「制度があることが最善(今は制度がないため次善の策に甘んじている)という人が存在する」という事実によって否定されます。つまり、安楽死制度を必要としている人が現にいるのです。
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僕はこの本を著すことで、この停滞しきった「私たち日本人は、この国でどうやって生きていきたいのか」の議論を一〇年早回ししたい。それがこの本の目的です。
P14
安楽死制度に反対する意見にはさまざまな種類があります。その中で、この章では「安楽死制度ができてしまったら、これまでギリギリの状態で生きてきた人が、死に追いやられる」という意見を取り上げてみましょう。
たとえば、こんな意見。
「難病を抱え、多くの人たちの支えがあって生きてこられた人がいる。安楽死制度ができることによって『そんなしんどい思いをしてこのまま先も見えずに生き続けるくらいなら、安楽死制度を用いて楽に人生を終わらせたい』と、その当事者が思ってしまうかもしれない。それまで精神的に崖っぷちな状況でも、簡単に死ぬことができないから、仕方なく今日も生きてきたのに、安楽死制度はその背中をチョンと押して、崖から突き落としてしまう存在になるかもしれない」
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それに対する反論としてはたとえば、
「生きたいのに死に追いやられそうな人がいるなら、制度運用の段階できちんと除外されるように設計すればいいだけ。あなた方が支援している患者さんたちが『生きたい』と願うなら、どうぞ生きてください。でも、私たちが『死にたい』と求めているのにあなた方の『生きたい』を押し付けないでくれますか。安楽死制度ができて、私たちが死んでもあなたたちには関係ないことです」
というものです。
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では、この議論の構造のどこに問題があり、なぜ実りがないのでしょうか。
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・・・議論のテーマが社会全体に影響を及ぼすような内容であった場合には、個人レベルの話をする前に「制度が社会全体に及ぼす影響」から議論を始めていく必要があります。
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それはなぜかと言うと、安楽死制度を公的に肯定することは「この社会は生きるに値しないと思ってもらってもいいんだよ」というメッセージにお墨付きを与えてしまう意味合いを持つからです。
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有名人などの自死がメディアで報じられた際に、その「自死に至った理由」を手っ取り早く探し出そうとするのは、「あの人は自分とは違う、明確な死に至る理由があったのだ」とレッテルを貼ることで安心が得られるからです。
しかし実際には、「明日、何となく生きていたい」と考える人がいるのと同じように「明日、何となく死んでもいい」と思う人が存在します。生きていくのに明確な理由がないのと同じように、死を求めるのに明確な理由がない場合もあるということ。その「何となく」の大半が、現状維持=生きるという選択を消極的にしている結果として、社会はそれなりに平穏として回っているだけなのです。しかし、これが見せかけの平穏であることは、もう皆が気づいているでしょう。
本当は誰もが「不都合なことや暗い部分」が自分の心中にも確実に存在していて、普段は目を向けないでいるだけだと知っているから、そういった報道に触れることで心の奥から「怪物」が目を覚ましてきそうな恐怖に襲われるのでしょう。
つまりは自死して報道されているその有名人と自分とは本当は地続きで、その間には「死に至る理由」にグラデーションがあるだけなのに、「彼には特別な理由があった。私と彼とは違う!」と明確な線引きをしなければ不安で仕方がないのです。
これまで生を積極的/消極的に選ぶことが「正しい」道で、自死=自ら死を選ぶことは「正しくない(または特殊な)」道であると、一般的に受け入れられてきた〝明確な〟前提が、安楽死制度が公的に認められることで覆り、死を選ぶこともまた「正しい」もう一つの道となってしまう。
それは、これまで日本人が常識としてきた「正しい生き方」のパラダイムに、「死を選ぶ生き方も正しい生き方だ」という新たな概念を付け加えて良いかどうか?の問題になります。
しかし、社会全体に関わるテーマが議論されているときに「誰がどう言おうと私はこう生きる」と、「社会」よりもカテゴリーが一つ下がったところにある「個人の生き方の話」を主張されても、話がかみ合うことはありません(違うカテゴリーの話になってしまうので)。
これは、安楽死制度に関する「典型的な」議論が成立しない一つの原因です。カテゴリーミステイクです。
P153
認知症をもつ方に対する安楽死制度を考えるために、実際にオランダで起きた事件を取り上げましょう。
これは二〇一六年に、アルツハイマー型認知症を患ったある患者さんに対し、安楽死を行った医師が、検察に起訴されたという事件です。
患者さんは七四歳の女性で、二〇一二年にアルツハイマー型認知症と診断され、その一か月後にはオランダ安楽死協会にて安楽死要請書に署名しています。
盛永審一郎の『認知症患者安楽死裁判』(丸善出版)によると、その要請書の条項には、「私は夫と一緒に家に住むことが大好きです。それがもはやできなくなったとき、私に自発的安楽死を適用する法的権利を行使したいと思います。確かにいえることは、本当に私は認知症の高齢者のための施設に置かれたくないということです」
と記載されていたとのことです。
そして、同書の記載からその後の経過を追うと、患者さんは次第に認知機能が低下していき、二〇一六年には介護施設に入ることになりました。そこで主治医となった医師が、安楽死宣言書の存在を耳にし、さらに施設入所後に「落ち着きがなく、混乱している」「患者が死にたいと少なくとも一日二〇回言った」といった状況をみて、安楽死の適用を考え始めたそうです。
そのうえで、医師は家族に状況について説明し、他のスタッフや安楽死の専門施設の医師、精神科医などとも相談したうえで、「安楽死の要件を満たしている」と判断しました。
二〇一六年四月二二日、主治医は家族が同席する中で、患者さんのコーヒーに睡眠薬を入れて眠らせ、安楽死の薬を投与しようとしましたが、患者さんが起き上がろうとしたために家族に患者さんの体を押さえさせ、そのうえで薬の投与を行ったということです。ちなみに、睡眠薬の投与も、安楽死の実行についても「患者はすでに病気についての認識や、意思決定能力がない」との考えのもとで、本人への相談や事前告知は行われなかったそうです。
この安楽死については、オランダで安楽死法が成立して以後、初めて医師が訴追される事件となりました。
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・・・地方裁判所が出した結論は「無罪」というものでした。安楽死法には「書面による宣言書を患者自身が作成していた場合、医師は、この要請に従うことができる」とされており、「患者が意思表示できなくなった場合には、書面による意思表示書が〝現在〟の意思とみなされる」とするオランダ保健福祉大臣の安楽死法に関する回答も、二〇一四年に出されていたのです。
そして、オランダ最高裁判所は二〇二〇年、
「これまでは、患者に対して安楽死を求める意思を実施前に確認する必要があったが、今後はその必要がない」
との判断を下しました。
つまり、認知症をもつ患者さんが事前に書面で意思を示していれば、その事前意思に従って安楽死を施すことはいつでも合法である、とされたのです。
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そもそも、認知症がない人であっても過去と現在の意思が一致していることって、そんなに当たり前のことでしょうか?
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そしてさらに考えるべきは、認知症を抱えた後の自分は、それ以前の自分とは整合性が取れていない、という面です。
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・・・「人生には過去があって、未来があって、そして現在がある」のが当然の社会に生きている僕たちの論理を当てはめて良いのでしょうか。それはどうも、強者の論理に傾いてはいませんか?そして、強者の論理に傾くということは、すなわちそこに優生思想が隠れている可能性があり、その論理展開で安楽死制度を語っていくことは、制度化の賛成派にとっては不利に働くと僕は思います。
もちろんこれは、法的な意味での同一性や人権としての個の保持とは別の話です。
オランダの考え方は、どちらかと言えばこの法的権利としての考え方から、「事前指示書による安楽死」が認められているのでしょう。もちろん法的・人権としては日本でも同一性は保持されるべきですが、安楽死に関わる意思決定として、「八〇歳の自分」の価値観・人生観を無視して、「六〇歳の自分」の意思を優先するのはどうなのか、と考えなければなりません。
本書は、これまでも何度か申し上げていることですが、そもそもの前提として安楽死制度の賛成・反対を僕自身が明確に示すためのものではありません。あくまでも、「安楽死制度を議論するためにはこういう論点が考えられて、この点をきちんと考えないと賛成派も反対派も、有効な議論になりませんよ」という材料を提供するためのものです。
ただ、僕個人はどちらかといえば安楽死制度には反対の立場を取っている以上、どうしても賛成派にとっては耳が痛い論調になることは事実です。
今回のオランダの決定についても、僕個人的には賛成はしかねます。欧米的な契約論と個人主義的な考えから言えば、この決定に妥当性があることはわかります。ただそれでも、今回の項で指摘したように、そこに「強者の論理を持ち込む」ことを許容したオランダの判断は、いわゆる「すべり坂」を下りかけているように思えてなりません。
認知症をもつ個人の意思を、一人の「今そこにいる」人間として評価する。そんな、言葉にすれば当たり前のことを、実行するのがどれほど難しいことか。それはやはり自分の中にも「強者の論理」を持ち出して何とも思わない「無意識の差別」が隠れているからかもしれません。
