暇と退屈の倫理学

暇と退屈の倫理学(新潮文庫)

 相当読みやすく書いてくださってるのですが、哲学慣れしていない頭には読み応えがありすぎた感が(苦笑)。

 とはいえ、こんな角度からの考察があるのだなと知れてよかったです。

 

P28

 資本主義の全面展開によって、少なくとも先進国の人々は裕福になった。そして暇を得た。だが、暇を得た人々は、その暇をどう使ってよいのか分からない。何が楽しいのか分からない。自分の好きなことが何なのか分からない。

 そこに資本主義がつけ込む。・・・かつては労働者の労働力が搾取されていると盛んに言われた。いまでは、むしろ労働者の暇が搾取されている。・・・

 なぜ暇は搾取されるのだろうか?それは人が退屈することを嫌うからである。・・・なぜ人は暇のなかで退屈してしまうのだろうか?そもそも退屈とは何か?

 こうして、暇のなかでいかに生きるべきか、退屈とどう向き合うべきかという問いがあらわれる。<暇と退屈の倫理学>が問いたいのはこの問いである。

 

P36

 生きているという感覚の欠如、生きていることの意味の不在、何をしてもいいが何もすることがないという欠落感、そうしたなかに生きているとき、人は「打ち込む」こと、「没頭する」ことを渇望する。大義のために死ぬとは、この羨望の先にある極限の形態である。<暇と退屈の倫理学>は、この羨望にも答えなければならない。

 

P52

 だいぶパスカルの議論につきあってきた。そろそろ話を別の方面へと広げていこう。

 パスカルの考えるおろかな気晴らしにおいて重要なのは、熱中できることという要素だった。熱中できなければ、自分をだますことができないから気晴らしにならない。

 では、さらにこう問うてみよう。熱中できるためには、気晴らしはどのようなものでなければならないか?お金をかけずにルーレットをやっても、ウサギを楽々と捕らえられることのできる場所で狩りをしても、気晴らしの目的は達せられない。

 つまり、気晴らしが熱中できるものであるためには、お金を失う危険があるとか、なかなかウサギに出会えないなどといった負の要素がなければならない。

 この負の要素とは広い意味での苦しみである。苦しみという言葉が強すぎれば、負荷と言ってもいい。気晴らしには苦しみや負荷が必要である。

 ならば次のように言うことができるはずだ。退屈する人間は苦しみや負荷をもとめる、と。

 

P96

 あまり横道に逸れないために、ここでは次の点を確認しておくにとどめよう。人類はそのほとんどの時間を遊動生活によって過ごしてきた。だが、気候変動等の原因によって、長く慣れ親しんだ遊動生活を放棄し、定住することを強いられた。いま私たちはその定住がすっかり当たり前の風景となってしまった時代を生きている。

 定住化の過程は人類にまったく新しい課題を突きつけたことだろう。・・・

 その証拠に、定住が始まって以来の一万年の間には、それまでの数百万年とは比べものにならない程の大きな出来事が数えきれぬほど起こっている。農耕や牧畜の出現、人口の急速な増大、国家や文明の発生、産業革命から情報革命。これだけのことが極めて短期間のうちに起こった。これこそ、西田が定住化を人類にとっての革命的な出来事と捉え、「定住革命」の考えを提唱する理由に他ならない。

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 さて、ここまで定住化が人間にもたらした変化の一部をあげてきたが、本書にとって最も重要であるのは次の点だ。定住によって人間は、退屈を回避する必要に迫られるようになったというのである。どういうことだろうか?

 遊動生活では移動のたびに新しい環境に適応せねばならない。新しいキャンプ地で人はその五感を研ぎ澄まし、周囲を探索する。どこで食べ物が獲得できるか?水はどこにあるか?危険な獣はいないか?薪はどこでとればいいか?河を渡るのはどこがいいか?寝る場所はどこにするか?

 こうして新しい環境に適応しようとするなかで、「人の持つ優れた探索能力は強く活性化され、十分に働くことができる。新鮮な感覚によって集められた情報は、巨大な大脳の無数の神経細胞を激しく駆け巡ることだろう」。

 だが、定住者がいつも見る変わらぬ風景は、感覚を刺激する力を次第に失っていく。人間はその優れた探索能力を発揮する場面を失っていく。だから定住者は、行き場をなくした己の探索能力を集中させ、大脳に適度な負荷をもたらす別の場面をもとめなければならない。

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 定住民は物理的な空間を移動しない。だから自分たちの心理的な空間を拡大し、複雑化し、そのなかを「移動」することで、もてる能力を適度に働かせる。したがって次のように述べることができるだろう。「退屈を回避する場面を用意することは、定住生活を維持する重要な条件であるとともに、それはまた、その後の人類史の異質な展開をもたらす原動力として働いてきたのである」。いわゆる「文明」の発生である。

 

P107

 自分の肉体的・心理的な能力を存分に発揮することが強い充実感をもたらすであろうことは想像に難くない。そして、定住生活ではその発揮の場面が限られてくる。毎日、毎年、同じことが続き、目の前には同じ風景が広がる。・・・自分の脳力を十分に発揮することができない。まさに退屈である。

 こうして退屈をまぎらせる必要が、人類にとっての恒常的な課題として現われることになる。もちろん遊動民が退屈を知らなかったということはないだろう。しかし、定住は退屈を、人間一人一人が己の人生の中で立ち向かわねばならない相手に仕立て上げたのだ。

 

P178

 こうやって見ると、ガルブレイスが能天気に推奨していた「新しい階級」の問題点がいっそうよく分かる。ガルブレイスは仕事に生き甲斐を見出す階級の誕生を歓迎した。しかし、それは消費の論理を労働にもち込んでいるにすぎない。彼らが労働するのは、「生き甲斐」という観念を消費するためなのだ。

 ここからさらに興味深い事態が現れる。労働が消費されるようになると、今度は労働外の時間、つまり余暇も消費の対象となる。自分が余暇においてまっとうな意味や観念を消費していることを示さなければならないのである。「自分は生産的労働に拘束されてなんかないぞ」。「余暇を自由にできるのだぞ」。そういった証拠を提示することをだれもが催促されている。

 だから余暇はもはや活動が停止する時間ではない。それは非生産的活動を消費する時間である。余暇はいまや、「俺は好きなことをしているんだぞ」と全力で周囲にアピールしなければならない時間である。逆説的だが、何かをしなければならないのが余暇という時間なのだ。

 

P400

 人間であるとは、おおむね退屈の第二形式を生きること、つまり、退屈と気晴らしとが独特の仕方で絡み合ったものを生きることであった。そして、何かをきっかけとしてそのなかの退屈がせり出してきたとき、人は退屈の第三形式=第一形式へと逃げ込むのだった。

 ならばこう言えよう。贅沢を取り戻すとは、退屈の第二形式のなかの気晴らしを存分に享受することであり、それはつまり、人間であることを楽しむことである、と。

 退屈の第二形式はハイデッガーの退屈論の実にすぐれた発見である。・・・

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 人間はおおむね気晴らしと退屈の混じり合いを生きている。だから退屈に落ち込まぬよう、気晴らしに向かうし、これまでもそうしてきた。消費社会はこの構造に目をつけ、気晴らしの向かう先にあったはずの物を記号や観念にこっそりとすり替えたのである。それに気がつかなかった私たちは、物を享受して満足を得られるはずだったのに、「なんかおかしいなぁ」と思いつつも、いつの間にか、終わることのない消費のゲームのプレイヤーにさせられてしまっていたのだ。浪費家になろうとしていたのに、消費者になってしまっていたのだ。

 

P404

 人間が人間らしく生きることは退屈と切り離せない。ならば、こう考えられるはずである。人が退屈を逃れるのは、人間らしい生活からはずれた時である、と。そして、動物が一つの環世界にひたっている高い能力をもち、何らかの対象にとりさらわれていることがしばしばであるのなら、その状態は<動物になること>と称することができよう。

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 ・・・ドゥルーズは、「なぜあなたは毎週末、美術館に行ったり、映画館に行ったりするのか?その努力はいったいどこから来ているのか?」という質問に答えてこう言ったことがある。「私は待ち構えているのだ」。

 ドゥルーズは自分がとりさらわれる瞬間を待ち構えている。<動物になること>が発生する瞬間を待っている。そして彼はどこに行けばそれが起こりやすいのかを知っていた。彼の場合は美術館や映画館だった。

 彼が使った「待ち構える・・・」という表現は、動物が獲物を待ち構えるという意味を持つ。・・・

 ・・・世界には思考を強いる物や出来事があふれている。楽しむことを学び、思考の強制を体験することで、人はそれを受け取ることができるようになる。<人間であること>を楽しむことで、<動物になること>を待ち構えることができるようになる。・・・

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 退屈とどう向き合って生きていくかという問いはあくまでも自分に関わる問いである。しかし、退屈と向き合う生を生きていけるようになった人間は、おそらく、自分ではなく、他人に関わる事柄を思考することができるようになる。それは<暇と退屈の倫理学>の次なる課題を呼び起こすだろう。すなわち、どうすれば皆が暇になれるか、皆に暇を許す社会が訪れるかという問いだ。

 マルクスは「自由の王国」の根本的条件は労働日の短縮であると言っていた。誰もが暇のある生活を享受する「王国」、暇の「王国」こそが「自由の王国」である。誰もがこの「王国」の根本的条件にあずかることのできる社会が作られねばならない。そして、物を受け取り、楽しむことが贅沢であるのなら、暇の「王国」を作るための第一歩は、贅沢のなかからこそ始まるのだ。