よくぞここまで言葉に・・・どれだけ大変だったか・・・と思いながら読みました。
P14
「なんで今さら……。虐待されていたのは、二十年以上も前なのに」
「今こうなっているわけではなく、ずっと昔からあなたの中に居たんですよ。交代人格が目立つ行動をしないタイプの人たちだと、ご本人は死ぬまで気付かないケースもあります。その反対に、年若くして気付くケースもある。あなたの場合は、それが今だっただけです」
ずっと私の中で生きていた〝わたし〟。別人でありながら、私と地続きの〝わたし〟。
「その人たちはあなた自身です」と主治医は言った。・・・
・・・
「その人たちは、あなたを守るために生まれたのです。自分たちが表に出ることで、あなたを休ませようとしているんですよ」
・・・
・・・先生は穏やかな声でこう付け足した。
「中の人たちを、もっと信頼しましょう」
私は、その言葉をすぐには受けとめられず、曖昧に頷いて診察室を後にした。先生の言うことはもっともで、何ひとつ間違っていない。私が病気を受けとめるのが第一歩であり、そこからようやく治療がはじまる。そう頭では理解していたが、心が追いつかなかった。診断を受けて最初の一ヶ月は、散々泣き、喚き、落ち込んだ。事態を受け入れようと思えるようになったのは、金木犀が香る秋の頃だった。
ちょうどその頃、とある友人と話をした。その人は、私が過去に受けた虐待体験をすでに知っていた。拒絶されるのではと恐れながら、私は自身の病名を打ち明けた。すると友人は、一切の躊躇いを見せず、事も無げにこう言った。
「じゃあ、はるさんはゴレンジャーですね!」
友人のこの言葉は、私自身を含めた五人の人格全員を肯定してくれる力強い言葉だった。また、友人が軽い口調で応えてくれたことも嬉しかった。驚きもせず、否定もせず、なんてことないみたいに、主治医の言う通り「よくあること」のように、
平和を願うゴレンジャー。それなら、悪くない。
そう思えた瞬間、自分が抱える障害は「怖いもの」ではなく、「私が生き延びるために必要なもの」だったのだと腑に落ちた。虐待を受けていた過去は変えられない。それによって表れた症状は、究極の防衛本能とも言える。そうまでして生き延びたかった。救われたかった。そういう自分を否定するのは、もうやめにしたい。
P85
一連の騒動に端を発し、「報酬よりも、ほしかったもの」と題して綴ったブログに、思いの丈をぶちまけた。ライターとしての道を閉ざされることを覚悟の上で出した告発文であった。一個人にそう思わせるほど、当該のカウンセリング企業はSNS上で大きな権力を持っていた。企業イメージとして優しさを前面に押し出し、思いやりを軸に社会をつくることを謳っていた。だが、その裏で私は搾取された。
告発文は思いのほか広く届いた。・・・結果的に企業側は自分たちの非を認め、原稿料やイベントの登壇料を支払うに至った。支えてくれる人たちの思いに感謝する一方、事がどんどん大きくなっていく渦のようなものが怖くて、SNSの通知を開くことにさえ恐怖を覚えるようになった。・・・
そんな最中、SNSで知り合った友人からDMが届いた。その人との交流期間はさほど長いわけではなく、やり取りした回数も多かったわけではない。でも、私はその人が好きだった。その人の生き方、言葉の選び方、姿勢の正し方、たたずまいが好きだった。だからこのときも、安心してDMを開くことができた。そこには、こんな言葉が書かれていた。
「あとから後悔するかもしれないけど、そのときはそれが正解だったんだから、自分の選択に間違いなんてない!って胸を張って大丈夫。赤ちゃんて生まれたとき目一杯泣き喚くことで息ができるんだけど、あの記事は、はるさんの最初の呼吸だと思ったから」
熱くて飲みきれず吐き戻してしまった煮え湯を、彼女は「呼吸」と言ってくれた。その言葉を目にした瞬間、大袈裟ではなく声を上げて泣いた。漏らした悲鳴を肯定してもらえることは、存在そのものを肯定してもらうことと同義だった。・・・
P93
離婚後、現在のパートナーと暮らしを共にするまでに、多くの出来事があった。
現在のパートナーは小学生からの幼馴染で、私たちはランドセルを背負う時分から互いのことを知っていた。彼との距離が急速に縮まったのは、中学生の頃、私の自死を彼が止めたのがきっかけであった。校舎のベランダから飛び降りようと目論んでいた私の異変に、なぜか彼は気付いた。・・・決意を悟られないようあくまでも平静を装い、いつもより明るく過ごすよう努めた。しかし、彼は私の計画と両親から虐待を受けている事実の両方に気付き、強い力で私を引き留めた。その際、彼はある意味で、土足で私のテリトリーに踏み込んできた。
「お前のそれ、どっち」
首筋に残る痣の痕を指し示し、昨夜の夕飯の内容を尋ねるかのような口調で彼は言った。彼の言う「どっち」とは、「母親と父親のどっちにやられた?」という意味であった。・・・「放っておいて」と背を向けた私に、彼は「嫌だ」と言った。
「俺は知っちゃったし、見ちゃったからな。ここでお前に死なれたら、めちゃくちゃ胸糞悪いわ。お前、逆だったらこれを見過ごして帰れんの?」
・・・怒り、泣き、喚く私に、彼はある言葉をくれた。
「お前は悪くない」
・・・
この出来事を境に、私は彼の部屋に日常的に逃げ込むようになった。・・・
・・・
彼自身もまた、多くの問題を抱える子どもであった。
・・・
「今思えば母さんはあの頃、鬱病だったんだと思う」
そう振り返る彼の中学、高校時代、母親はほとんど寝てばかりで、食事の用意も洗濯も放棄していた。・・・
・・・
・・・私たちは互いに高校を中退した直後、絶縁状態となった。原因は私にある。子どもだった私は、彼に甘える頻度や方法を大きく間違えた。わかりやすい言葉で言うと、重すぎたのだ。・・・
・・・
・・・あれから二十五年余りが経った今、私たちは共にいる。私が帰りたい場所は、土地ではなく「人」なのだと強く思う。・・・
P134
「嫌だった」と言ったら、「ごめんね」と返す。今一緒に住んでいるパートナーはそういう人で、決して「それくらいで傷つくなんて」とは言わない。そんな彼が伝えてくれる言葉は、いつだって私の存在そのものを肯定してくれる。
それでいいんだよ。
その一言だけで、さっきまで萎んでいた心が僅かに膨らんだ。それを「幸福」と呼ぶのは、いささか大袈裟だろうか。そんなことはないと、そう思いたい。負の感情は、拒絶されることが多い。どんなに言い方を変えても、どんなに丁寧に伝えても、相手が「聞きたくない」と耳を塞げばそれまでだ。しかし、彼は私の負の感情を受け入れてくれる。「その言い方は嫌だ」と伝えたら、「そうだよね、ごめん」と己を省みてくれる。それは、とても幸せなことだ。嬉しいことだ。
