色とりどりの人生が本から溢れてくるような印象を受けました。
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ハッシャダイソーシャルは、全国の高校や児童養護施設、少年院などの若者に、無償でキャリア教育を提供している一般社団法人。行く先々の学校や施設で彼らが繰り返し語っているのは「Choose Your Life」、自分で自分の人生を選択するということの重要性だ。
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今回、新潟少年学院の檀上に立った勝山は、相棒の三浦宗一郎とともに、ハッシャダイソーシャルの代表理事を務めている。彼らもまた、限られた選択肢の中で自らの生き方をつかみ取り、いまの活動にたどり着いた。
いまでこそ人なつっこい笑顔で誰からも好かれる勝山だが、10代のころは京都のヤンキーで、すれ違う誰にもメンチを切っていた。
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しっかりと目的意識を持って豊田工業学園に進んだ宗ちゃんとは対照的に、高校をやめた16歳の僕は、何のあてもなくぶらぶらしていた。・・・
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こんな僕にも、将来の心配をしてくれる人はいた。17歳の時から働いていた串カツ屋の大将がそう。「人はなぜ学び、働くのか」という問いを投げかけてくれた恩師のような存在だ。
大将は40代前半で、二十歳前後の山科の不良連中の面倒を見ていた。
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わずか1年ちょっとだったけど、大将のところで働くのは本当に楽しかった。20席くらいしかない小さな店なのにいつも満席で、一晩で50万円も60万円も稼ぐすごいお店だった。
大将は豪快な人で、店を閉めると、その日の稼ぎを握りしめて、そのまま僕らを祇園に連れて行ってくれた。大人の遊びの大半は、大将に教えてもらったんじゃないかな。
もちろん、遊びだけでなく「働く」ということの価値も教わった。それまでの僕はたまに日雇いのバイトをするくらいで、ちゃんと働いたことなんて一度もなかった。
ツレとバイクで走り回るのも楽しいけど、「働いて稼ぐことがこんなにも楽しいことなんだ」ということを体感できたのは、17歳の僕にとってとても大きなことだった。
父親と過ごした経験があまりなかった僕にとって、大将は父親のような存在だった。・・・でも、楽しい時間ほどはかなく終ってしまうもの。・・・
ある晩、大将とうどん屋に行った後、コンビニに寄ったのだけれど、大将がいつまでたってもトイレから出てこない。・・・
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救急搬送され・・・後日、・・・くも膜下出血という話だった。
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もう一つ、19歳の僕の人生に決定的な影響を与えた出来事が起きた。ヨメさんの妊娠だ。
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・・・妊娠を聞かされた時は地面の底が割れて、どこまでも落ちていくような感覚だった。子どもが嫌いなわけじゃない。いまの自分に、ヨメさんと子どもを養うことができるのかという漠然とした不安だ。
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実は、彼女の妊娠がわかった後、大将に報告に行った。そうは言っても子どもができたのは嬉しかったから、大将に真っ先に伝えたくて。
そして、一緒に入ったうどん屋で、「大将のところで正式に働かせてもらえませんか」とお願いしたんだ。あの時の僕にとって、大将の串カツ屋で働くこと以外に現実的な選択肢はなかったから。
すると、「お前、自分のやりたいことはないのか?」「情熱を注げるものはないのか?」と大将が僕に聞いてきた。「ないです」。そう答えると、「だったら少し考えてみたらどうだ」と言って、こんな話をしてくれた。
いまの日本には企業が400万社ある。職種も1万7000種類。その中の仕事をどれだけ知っているのか。そもそも仕事を知らないのに、頭の中の数少ない選択肢からやりたいことを見つけようとしても無理だろう。その前に、いろいろな人に会って、自分のやりたいことを見つけるべきではないか―。
「すこし考えます」。そう言って別れたあと、すこし経って大将は死んでしまった。絶望の中、一番頼りにしたかった人がいなくなってしまったんだよね。あの晩の大将の言葉は、遺言のように僕の中に残った。
P58
・・・学園の3年間を終えた僕は、2014年にトヨタの正社員となり、正式に高岡工場で働き始めました。ただ、正直なことを言うと、トヨタに配属される段階で、トヨタをやめたいと思うようになっていました。仕事が自分にはつまらなく感じたから。
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そんな時に、僕の職業観を大きく変える出会いがありました。期間従業員として3カ月だけ働きに来た門口さんというおじさんです。
「門口と申します!沖縄から来ました!よろしくお願いします‼」
こちらがビックリするような挨拶をした後、門口さんは、ラインの組み立て作業をニコニコしながら、本当に楽しそうに始めました。同じ仕事をしているのに、心底楽しそうなんです。
衝撃を受けた僕は、仕事終わりの門口さんを捕まえて、ごはんに誘いました。・・・
門口さんには、たくさんのお話を伺いました。消防士になるという夢をあきらめた話、猛勉強して公務員になった話、コーチとして中学校の野球部を全国2位に導いた話、居酒屋を開くために35歳で公務員をやめた話―。工場での仕事にモヤモヤしていた僕には、すべての話が刺さりました。
そして最後に、一番聞きたかった話を聞きました。
「この仕事って、楽しい仕事ですか?」
すると、門口さんはすこし考えてこう答えました。
「この仕事が楽しいかどうかは僕にはわからないけど、どうせやるなら全部を楽しくやりたいと思っているんですよね」
衝撃でした。これだけ聞くと、なんてことのない話かもしれませんが、当時の僕には衝撃でした。それまで、仕事はつまらないものであり我慢するものであって、目の前の仕事を楽しむという感覚はなかったから。
それから、僕は「目の前の仕事を楽しむにはどうすればいいのか」「この職場に行くのが楽しみだと思うにはどうすればいいのか」ということをひたすら考えるようになりました。
「まずは挨拶からだよね」と職場で元気よく挨拶したり、少しでも仕事が楽になるように工夫したり、先輩をごはんに誘ったり、トヨタ本社の人事部の方に掛け合って大卒社員と学園卒の社員が交流する場を作ったり……。
すると、不思議なもので、仕事がどんどん楽しくなるんですね。いつの間にか、僕の職場は高岡工場の中で一番明るいと言ってもいいくらいの職場になっていました。
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トヨタ自動車で働き始めて2年目の冬。僕は「トヨタをやめるか、それともそのまま勤めて職場を変えるか」という二つの問いの間で揺れ動いていました。
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そんな時です。「世界青年の船」という国のプログラムの存在を知ったのは。
世界青年の船は、40日間、世界11カ国の若者と一緒に船の上で過ごすというプログラム。参加者は日本人120人に、10カ国の若者が120人。・・・世界各地から集まった18~30歳の若者が船内で共同生活を送り、船内での講演やイベントの企画を通して、リーダーシップやダイバーシティを学ぶというものです。
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そして、船の上でトヨタをやめる腹が決まりました。360度に広がる海を見ていて、安定ではなく、挑戦する人生を選ぼうという気持ちが心の底からわき上がってきたんです。
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こういうふうに決断ができたのは、実はその時に読んでいた『バガボンド』の影響もあったんですよね。沢庵和尚が主人公の武蔵に言った「お前の生きる道は、これまでもこれから先も、天によて完璧に決まっていて、それが故に、完全に自由だ」という言葉がズドーンと刺さって。
そうか。ここまでの自分の人生も、トヨタ工業学園に入り、トヨタをやめようと思っていることも、すべて天が決めたことで決まっていたんだな。ならば、その道を信じて正解に変えていこう。そう思いました。