女装して、一年間暮らしてみました。 つづき

女装して、一年間暮らしてみました。

 もう少し、書き留めておきたいところがありました。

 

P227

 僕にとって女性になることは、本質的なもの、人としての内なる故郷への帰還を意味した。男となるために、僕はいつの間にか、内なる故郷をあとにしていた。僕は人間でありたい。妥協も区別もしたくない。男でもなく女でもない完全なもの。

 なぜそう思ったのか?女性でいる限りリラックスできるからだ。くり返しそう感じた。すべてが〝軽く〟感じられる。そして完全になれる。欠けていた僕の一部が、思いがけず僕のなかにあった。

 

P238

「数日間は、女にならないで。少なくとも、私の前では男でいて。これは命令よ」マリアがささやいた。

「僕はいつだって男だよ」

「私の言いたいこと、わかるでしょ。少し休憩して。お願い。私たち二人のために」

 マリアは真剣だった。実験に対して、マリアは理解を示してくれていた。でもそれに甘えて、彼女がいかに苦しんでいるか、僕は見逃していた。僕のほうが彼女を理解していなかったのだ。・・・

 それに僕自身、そろそろ限界がきていることを感じていた。見た目を変えることで、僕の内面に変化が生じた。それは予想されたことだった。およそ一〇か月のあいだに、男の人格の一部が割れた氷山のように溶け出した。マリアの言うことは正しいのかもしれない。僕たちの関係は危機にさらされているようだ。

 正直なところ、僕は自分のことを女とも男とも思えない。その中間だ。

 どちらか一方である必要がないのは、気楽だった。でも、マリアが僕のことを男として見られなくなったらどうだろう?僕は彼女の手を取って言った。「わかった。いったん中止するよ。前に約束しただろ?二人の仲を壊すようなことはしないって」

 マリアはほほえんだ。「あなたの実験はおもしろいと思うわ。本当よ。でも、そのせいで愛を犠牲にするのはいや」

 いずれにしろ僕は、実験「クリスチアーネ」をさらに続けるべきかどうか、悩んでいた。続けるだけの力が残っているかどうかも疑問だった。もともと、やめる時期がきていたのかもしれない。僕は疲れていた。

 ・・・

 三日間女装しないとマリアに約束した。彼女の次の出張までの三日間。・・・それまでのあいだ、僕はできるだけ彼女のために時間を使おうと思っていた。

「あなた、とてもリラックスしているみたいね」マリアが言った。「どうしたの?」

 僕にもわからない。理由などない。僕はありのままの自分でいただけだ。

 朝、スカートをはかずにパン屋に行く。化粧もしない。ひげも剃らずに、ジーンズをはいて外に出る。通りを歩いても、緊張することはない。特別な出来事も起こらない。街で会う知り合いたちも、安堵の息をもらしている。

「やっといつもどおりに戻ったんだ。よかった」僕に笑いかけてくる。

「戻ったんじゃないよ」僕は答える。「ど真ん中にいる」

「終わったのか⁉」ある男友達が言った。

「終わった?何の話?」

「お前の病気というか問題というか。〝超性別〟とでも言うべきか?」

〝超性別〟……まただ。そんな言葉は聞きたくもない。

 同性愛や異性愛といった単語と同じように、人がどういった性生活を送っているかを表す言葉なのだろう。でも、僕が今までやってきたのは、性別を超えようとすることではない。凝り固まった男のイメージにとらわれたくなかっただけだ。〝超性別〟といった言葉こそ、男が狭い世界に閉じ込められている証拠ではないだろうか。自分たちの世界が脅かされると感じているから、僕にそうしたレッテルを貼ろうとする。きどった言葉を使って真実から目を背ける。

 僕がやったのはまったく違うことだ。男の殻を打ち破りたかった。それは同時に自分本来の姿に戻ることを意味していた。男であることを一秒たりともやめずに、自分のなかの女性らしさを取り戻すことだ。それがたまたま一般にはタブーとみなされていただけのこと。何を女性らしさとみなすかは人それぞれだろう。しかし各自が自分の思う女性らしさを理解し、そして体験することが、古びた男性像を打ち破り、本当の個性を取り戻す近道のはずだ。

 

P282

 希望したのはマリアだった。女としての僕と外出することにマリアがこだわった。それも、旅行中に。

「女友達として!」

 クリスチアーネを捨てることができないと、僕は何度も言って聞かせた。マリアも慣れてはきていた。でも、それ以上でも以下でもない。実験の結末は僕にもわからなかった。

「慣れるのって、嫌い」マリアは言った。「習慣には命が感じられないから。私はあなたと生きていたいの。そうは言っても、あなたのやることすべてにつきあうつもりはないわよ」

 この旅行のために、僕はリグーリア海岸コンドミニアムを借りていた。そこで優雅な週末を過ごした。女同士のデートに何を着ていけばいいか、マリアのほうが聞いてきた。

「とびっきりおめかししてくれ」僕は言った。

「わかったわ」マリアはうなずいた。

 ・・・

「ねえ、いつまでやってんのよ!」マリアがドアの外で叫んだ。

 手がふるえ、マスカラがはみ出てしまった。また最初からやり直しだ。

「頼むから、せかすなよ」僕は言った。「一年たった今も、まだ化粧が下手なんだから」

 マリアはいつも完璧にメイクする。鏡の前に座る時間も短いのに。すべての準備が整い、僕はドアを開けてポーズを取った。

「信じられない」マリアは感動している。「このドレスもすごくいい!」

「マリアもきれい」

 マリアはスキンカラーのブラウスを着て、同色系のスカートをはいている。そして素足だ。うらやましくてしかたがない。ストッキングなしでは、僕の脚は見せられたものじゃない(剃っても剃っても生えてくるすね毛が恨めしい)。・・・

 ・・・

「ちょっと目を閉じて」マリアは言った。ネックレスが首にかかるのを感じる。「私から、親友へのプレゼント」彼女はささやいた。

 とてもきれいなシルバーのネックレス。真珠が僕の胸に輝いていた。感動した僕は、またマリアに口づけしようとした。彼女は身をひるがえす。

「クリスチアーネ!女友達!恋人じゃないの!」

 レストランでは窓際の席についた。海が一望できる。僕たちを歓迎しているかのように、空には星がきらめいている。

 マリアのために椅子を引いたり、上着を取ったりしなくていいのが奇妙に感じられた。それに彼女のために注文する必要もない。・・・

 僕は気楽だった。ふだんなら、女性を前にしているときは、男としてすべてをコントロールしようとする。好感度、金銭、時間、秩序、規律。積極的にマリアを楽しませようとする必要がないことにも気づいた。本当にリラックスできる。椅子にもたれ、海をながめる。マリアの存在を心地よく感じながら、いろいろな話をした。よく笑った。ハンドバッグを手に、二人でトイレにも入った。並んでメイクを直しながら、横の席に座って僕たちのことをずっと話題にしていた男たちのことも話した。

「私の左にいた男はかっこよかったわ」マリアが言った。

「ホント?あんなのが好きなの?」

 再びテーブルに戻った僕たちは、店内の男たちを品定めした。僕が気に入ったのは一人だけだった。マリアは三人!

 おかしなことに、嫉妬はまったく感じなかった。

 ほろ酔い気分になり、二人でレストランのテラスに出た。・・・マリアの手を握ろうとしたら、彼女は一歩離れて言った。「ダメ、女友達は手をつながないの。ねえ、私が何を考えてるかわかる?」

 僕は首を横に振った。

「女のあなたといっしょにいると、とてもリラックスできるの」

「わたしのことが少し理解できるようになったんじゃない?」僕は答えた。

「男女の役割を演じる必要がないからかな?」

「そうかもね」

 寄せては返す波を僕たちはながめていた。波の泡が白い冠となって砂浜を彩る。テラスの支柱にまで波が届くこともある。そのたびに体に振動が伝わる。この自然こそが純粋な〝性〟だ。ただ僕の理性だけが、バカげた性〝別〟にこだわっていた。つくり出された男らしさと抑圧された女らしさに。出会い、近づき、引きつけ合いながらも、男女の分離のせいで、僕たちは本当に理解し合うことができなくなってしまったようだ。でも、本当のところ、そのような分けへだては必要ないのではないだろうか?僕たちは本来同じもので、生きている環境が違うだけなのではないか?