女性になりたい訳ではなく、女装したいというのともちょっと違って、女性として生活してみたらどうなるか実験の報告、という珍しい本を読みました。
P75
女性の役割を演じるようになってから、僕の世界が大きく揺らぎはじめた。
どうして女性としてふるまうことに興味をもつようになったのか。僕はそれまで、まわりの人たちに、おおざっぱで言い訳じみた説明を続けていた、しかしある日、僕の考えと新しい経験について友人にしっかり話そうと決心した。
そこでアンバーに電話をかけた。アンバーはインドへの瞑想の旅で知り合った旧友だ。彼ならわかってくれると確信していた。女装が気まぐれや性癖ではなく、より深い関心にもとづいていることを。予想どおり旧友はすぐに理解してくれた。僕の説明を聞いて、アンバーはいたく感心して、すぐにでもいっしょに街に出たいと提案した。今の僕がいちばん恐れる場所、たくさんの人であふれる市街地にいっしょに行こうと言うのだ。そして、地下鉄にも乗ろうと。
・・・
名声。避けては通れないテーマ。実際のところ、もううんざりしていた。プロダクションマネージャー、プロデューサー。国際人。スターに囲まれて生きる男。変わり者。文筆家。なんと、おぞましい。何をしようが、偏見に満ちた目で見られるのだ。みんな僕のことを知ったような気になっている。僕自身、そのときそのときの仕事をつうじて、自分を定義しようとしていたふしがある。そしていつの日か、自分が何者なのかわからなくなっていた。
そうだ。これもまた女性になる意義のひとつだ。これまでの名声をぶち壊したい。与えられたイメージを脱ぎ捨てたい。すべての偏見から逃れ、自由になりたい!
名声なんか傷ついてもかまわない。どうでもいい。それなのにどうして不安になっているのか。自分でも理解ができなかった。
「勇気を出せよ!」アンバーが受話器の向こうで言っている。
「ごほうびとして、メイクサロンでプロによるメーキャップをおごるからさ。どうだ?」
危険な誘惑だ。僕は自分の心に耳を傾けた。
「お友達の言うとおりよ」僕のなかの女性が話しかけてくる。「不安から逃げちゃダメ。しっかりと向き合いなさい!あなたの冒険はまだ始まったばかり。中途半端では意味がないわ。いざとなったら、いつだってやめられるんだから」
するとジャマ声が割り込んできた。「そんなことしたら、お前の生涯はだいなしになるぜ」
パニックになりながら、鏡に映る自分の顔をながめた。化粧はいまだに不得手だ。いろいろと情報を集めてはいるが、エレガントな女性というよりは、小汚いオカマといった仕上がり。だからジャマ声の言ったことは忘れてアンバーの提案に乗ることに決めた。
「わかった。地下鉄に乗ろう。まず、メイクサロンだ。今すぐに行こう」そう答えた。
P88
「マリア、君といっしょに暮らせて、本当によかったと思っている。セックスにも満足してる。本当に心配いらないよ。おれが変わり者だってこと、知ってるだろ?」
「だから心配なのよ」僕の突拍子もない思いつきに、マリアはこれまで何度も振り回されてきた。
「で、いつまで続けるつもり?」
「まだ始めたばかりだよ」ひとまずそう答えた。
いつまで続けるのか、自分自身に何度も問いかけた疑問だ。そのつど、そもそもなぜそんなことをしているのか考えざるをえない。だが、僕はうんざりしていた。自分がやりたいことにいちいち理由を見つけ、計画を立て、評価する。いかにも男性的ではないか。スタートからゴールまでの道筋が初めからわかっているのなら、新しい経験をする意味などない。
これから出会う人たちの誰もが、僕に実験の動機を聞いてくるだろう。間違いない。理由や目的や期間をたずね、自分の価値観と照らし合わせるのだ。つまり、テストだ。僕が彼らの社会に属してもいいのか、品定めをする。しかし、僕には人に説明できるような明確な目的がない。心の声にしたがっただけなのだから。気がついたら、そうなっていた。これを妻にどう説明すればいいのだろう?自分でも、自分が理解できないのに。実験はまだ始まったばかりで、僕には何の経験もない。だからこそ、興味が尽きないのだ。
P130
・・・数週間、僕はほとんどの時間を女性として生活していた。レストランにも、近所のパン屋にも女性として行った。恥ずかしさがこみ上げてくることも何度かあった。この気持ちに打ち勝つのは簡単なことではない。
人間の価値は心のなかにあるものだと、僕はずっと思っていた。受けた教育とこれまでの人生をつうじて、外見は重要でないと思い込んでいた。外見は単なる見せかけで、無意味なものだと信じていた。そのことに疑いを感じたことは一度もなかった。
しかし今、僕は、人格にとって外見も非常に大きな意味をもつのではないかと考えるようになっていた。でなければ、外見が変わったことをきっかけに、他人の、そして僕自身の反応が大きく変わってしまったことの説明がつかない。〝見た目〟は想像していた以上に、人間の本質に深くかかわっているようだ。恥ずかしさを感じるのも、それが理由ではないだろうか?
・・・
いずれにせよ、今回の実験をつうじて、自我というものの土台が揺さぶられることになった。僕は、自分自身のイメージを自ら打ち壊したのだ。そう考えると、開放的な気分になるのもうなずける。しかし同時に、まわりの人たちの価値観にも衝撃を与えてしまったようだ。タブーを犯すことで、僕自身のアイデンティティだけでなく、他人が―自分の人生に照らし合わせて―僕に投影していたイメージやアイデンティティも揺れはじめた。彼らにとって、僕が男だというのは紛れもない事実だ。そして、僕という存在をつうじて、彼らの男性像が崩れはじめたのだ。
・・・
外見を変えるだけで、自分自身だけでなく、それを見る他人の態度や性格も変わってしまうものなのだろうか?僕自身、女性の姿をしはじめてから、よりリラックスして、性格も丸くなったような気がしている。マリアも何度もそう言った。自分自身の役割を理解するうえで、恥ずかしさは避けては通れない道なのだろうか?
そもそも〝男である〟とは何を意味しているのだろう?・・・
P208
かかりつけの医者が検査したところ、女装を始めてからテストステロン値が下がったことがわかった、と伝えた。婦人科の答えは僕の予想と一致していた。「行動によって、ホルモンの分泌に変化が表れます」
科学的にも証明されているそうだ。・・・
「自分でもおわかりでしょう。女性を演じることは、あなたの体にも精神にも影響するのです」医者は続けた。「自分で思っている以上に強く作用しているはずです。遅かれ早かれ、体にも変化が表れるでしょう。本当に女性になろうと考えることはありませんか?」
「あります。最近よく考えます」
「それもホルモンの影響です。一度、エストロゲン値も測ったほうがいいでしょう。上昇しているかもしれません。それともうひとつ。性格に変化が表れていませんか?たとえば、緊張がなくなった、楽観的になった、感情的になった、無精になった、あるいは細かいことにこだわらなくなった、とか」
「ええ、そのとおりです」
「エストロゲンとテストステロンに深く関係している行動様式というものがあります。いま言ったのは、テストステロン値が下がり、エストロゲン値が上昇したときに起こる典型的な変化です。ただし、誤解しないでください。これらは女性の特徴を表しているのではありません。女性も人それぞれ、さまざまな性格があり、男性的な人もいるのですから。人間の性格や行動はホルモンだけに影響されるのではありません。さまざまな要因が関係しています。ただしあなたの場合は、長いあいだ女性として生活していることが、テストステロン値の変化を引き起こした直接の原因だと考えられます」
・・・
彼はかつて、民俗学者としてブラジルのジャングルに研究旅行をした。そこで、妻が出産時に亡くなったという男性に出会う。子どもを不憫に思い、母親がわりになってやりたいという気持ちが強かったのだろう、その男性は薬を飲むことなしに母乳が出せるようになり、それを赤ん坊に与えていたそうだ。