人生はマナーでできている

人生はマナーでできている

 高橋秀実さんの本、やっぱり面白いです(笑)。

 

P34

「乗り換えを調べないんですか?普通、調べますよ」

 編集者の川上晃子さん(仮名)が呆れ顔でそう言って、自分のスマホを私に見せた。

 ・・・ポンと指を触れると各車両の停車位置が図解され、どの車両から降りると、どの路線の乗り換えに便利なのかが表示される。・・・降りてから移動するのも乗る前に移動するのも移動に変わりはないのではないかとたずねようとしたが、指は止まらず、そこから「グーグルマップ」へ。・・・

 あなたは電車か。

 私は思った。ホームでの移動時間まで計算するなら電車の乗り換えというより、あなた自身が電車のようではないか。

 ・・・

 もしかして「時間を守る」とは、「電車になる」ということだったのではないか。

 ・・・

 調べてみると、そもそも「時間」という漢語が人々の間で使われ始めたのは、幕末、明治初期の頃(『新明解 語源辞典』三省堂 2011年)。日本に鉄道が開通したのは明治5年(1872年、新橋―横浜間)なので、実は「時間」そのものが鉄道とともに普及したのである。

 それまで日本に「時」はあったが、「時と時の間」という概念はなかったらしい。「數の觀念に乏しかった我が國民は、晝夜朝夕と云ふ以外の時間に就いては、殆ど無頓着であつた」(中山太郎著『日本民俗學 随筆篇』大岡山書店 昭和6年)そうなのだ。一日は「朝」「昼」「夕」「夜」と区分され、「時」は「時の鐘」と呼ばれる鐘の音で知らされた。夜明けが「明け六ツ」で日暮れが「暮れ六ツ」。「明け六ツ」「五ツ」「四ツ」、正午で「九ツ」になり「八ツ」「七ツ」「暮れ六ツ」という具合に季節によって、それぞれ長さは異なり、鐘をつく人がつき忘れたり、期限の迫った交渉をする時に鐘をつく人を買収してつかせなかったりするケースもあったらしい。・・・

 ・・・

 ところが明治になって今日の「定時法」、つまり時計に基づく24時間制度が導入された。「時」は分、秒単位で正確に刻まれ、そこにタイミングを合わせるように鉄道の開通。鉄道は国民に「定時運行のために時間規律を励行させただけでなく、各地の時間を正確に同期させた標準時の制度を誕生させた」(橋本毅彦、栗山茂久編著『遅刻の誕生』三元社 2001年)という。つまり私たちが漠然と「時間」と感じているのは、定時運行の「時間」。・・・

 実際、大正時代の鉄道関係者向けのマニュアル本には次のように記されている。

 ・・・

 鉄道は「時間」の指導者。さらには「鐵道は常に時間に支配せられ又公衆を時刻によつて支配して往かねばならぬ」とまで言っていた。鉄道が「時間」に支配されることで国民を時刻で支配する。私たちは「時間」が気になるとそわそわするが、それはもともと乗り遅れるという心配だったのだ。

 

P61

 古い挨拶を探るべく、私は富山県を訪れることにした。

 富山県は「ことばの正倉院」、あるいは「古語の博物館」と呼ばれている。なんでも「袋小路の地形のもとに、京阪で発生したさまざまな語が次々に北上、伝播してきた。そして、それらの語は、後ろにひかえる連峰に阻まれ、ここに沈殿することになった」(真田信治監修『日本海沿岸の地域特性とことば』桂書房 2004年)らしく、ここには古語が吹き溜まっているそうなのだ。

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 彼らの挨拶語として特筆すべきは「気の毒な」だろう。富山では人から何かをいただいた時に「気の毒な」「あれー気の毒な」と言う。「ありがとう」であれば「どういたしまして」「こちらこそありがとう」などと返せるが、「気の毒な」と言われると、どう応じてよいのかわからない。・・・「『気の毒な』は相手の立場に立った言い方です。相手に散財させた、苦労かけたね、相手に対して配慮することで感謝に変えるわけです」

 解説してくれたのは金沢大学人間社会研究域歴史言語文化学系の加藤和夫教授である。「気の毒な」は富山県のみならず石川県、福井県、そして岐阜県の一部でも使われているらしい。

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「『気の毒な』には浄土真宗の思想が影響しているのかもしれません」

 加藤先生はそう続けた。北陸一帯は「真宗王国」と呼ばれる。・・・

浄土真宗は、自分の努力で悟りを得るのではなく、仏に救済されるという考え方ですから」

―他力本願ということですか?

「おかげさまで、という発想です。自分はまわりの人が何かをしてくれたおかげで生きている。だから相手のことに思いをいたして、自分ではなく相手中心の表現になる。相手がイヤな思いをしてくれたおかげで自分がいい思いをしている。相手をおもんぱかって『気の毒な』や『やなこっちゃ』という表現になるんです」