とにかくピッツァが焼きたくてたまらない、こんな人生もあるんだな、ピッツァってこんなに奥深かったんだ、とおもしろかったです。
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思えば、全部この言葉から始まったのだ。
「僕、高校に行ってないんですよ。十六の時にナポリピッツァを食べて感動して、十七から東京のピッツェリアで働いて、十八でナポリへ行ったので」
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・・・この夜のマリナーラは、これまでのどれとも似ていない雰囲気を持っていた。
なんというか、〝勢い〟があるのだ。
薪火の熱を一気に吸い込んで立ち上がったコルニチョーネ(縁)、その自由な焼き色。こんがり焼けているのにやわらかで、ときどきカリッと、フェイントをかけてくる食感。香ばしい生地も、滴るようなトマトソースも、なりたいようになっている。それでいて、どこか品がいい。
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もしかしてイタリア人が焼いている?
窯の前を見てみたら、白いTシャツのなかで体が泳ぐほどひょろっと痩せた黒髪の男の子がパーラ(ピッツァ生地をのせる長柄のへら)を操っていて、それが中村だった。
後日、雑誌の取材をすることになって、「男の子」と思ってしまったくらい少年っぽさの残る中村は二十五歳だとわかった。若いのに、ピッツァ職人歴は八年になるというので指折り遡ると、スタートは十七歳、まだ高校二年生の年になる。計算違いかな、と再び指を折り始めた取材者を察するように、中村がさらりと放ったのが冒頭の発言だ。
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「一瞬で、これだ!って思ったんです。マルゲリータでした。縁が分厚くて、白くて、ふわふわもちもちして。お餅っぽい焼けた香りがして。トマトソースがジューシーで、白いチーズが溶けて、口のなかで混ざって。わあ、うま!って、言葉も出ないほど」
十六歳の感性全開で受け止めた、生まれて初めての食感と味と香り。
それらに加えて、中村を捕らえたのはスピード感である。
大きな大福のように丸まった生地の塊を、大理石の台の上で、両手でパタパタさせ魔法のように延ばしてしまう。生地が平らな円状に広がったところへトマトソースをさっと塗り、モッツアレラやバジリコを振って窯へ突っ込む。今入れたと思いきや、あっという間に焼き上がる。
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「無駄のない動きってこういうことか、と。リズムがあって、技術があって、スピードがある。すげえ、カッコいい!ここで働きたい!って気持ちが湧いてきました」
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大坪は日本でさまざまな職に就きながら、旅費が貯まるとバックパックの荷造りをする日々。ひときわナポリに魅せられ、約十カ月暮らしたこともある。「だったらいっそ、旅とイタリアを仕事にしてしまおう」とイタリアに特化した旅行会社へ就職し、仕事で訪れた何度目かのナポリで、予言めいた言葉が降ってきた。
〝ピッツァ職人を生業にできれば、きっと幸せだ〟
「なんでかなぁ。僕は中村のように、すごくピッツァが好きっていうわけでもなかったし。いや、もちろんおいしいし、大好きですけど、ピッツァが好きでたまらないという理由ではなかったです。ナポリの郷土料理のほうも大好きですし」
彼の心を捉えたのはむしろ、ピッツァを作る「人間」のほうだ。
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ある日大坪は、職人たちが勝手口で煙草を吸う光景に出くわした。
一人は髭を蓄え、ぴったりとしたTシャツからむき出しになった腕はすさまじくタトゥだらけ。もう一人はたっぷりと太っていて、鋭い目つき。「いかにも悪そう」な二人組が、休憩時間に煙を吐きながら爆笑している。
「その二面性が、すごくよかったんです。悪そうに見える彼らだって、店に入れば真面目に、それ以上にプライドを持って仕事している。で、やることやったら、ブチッとスイッチを切るわけです。オンとオフに緩急をつけて、瞬間、瞬間を楽しんでいる。なんて自由な人たちだろう、と感じました」
彼らは時間に拘束されたり、誰かに仕事をさせられているのではなく、自らが決めて働いている。いわば、意思ある自由。
「全員がそうだから、誰かと誰かがいつもぶつかり合っているし、それぞれが主張し合って全然まとまらず渾沌としています。でもそれこそが圧倒的な魅力で。渾沌の世界に身を置いていると、こうじゃなきゃいけない、こうあるべき、なんてなくていいんだなと思えるんです。僕にとってはすごく居心地がいい。ただ、渾沌に不自由を感じる人にとっては地獄かもしれませんけどね」
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「イタリアじゃあ、むっかつくなぁ!あいつら!みたいな〝むかつく力〟が大事なんですよ。むかつくけど、だったら、どうしたらあいつらに認めてもらえるだろう?とジタバタすることが修業。僕の場合は気に病むよりも、認めさせる方法を、具体的に考えていました」
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夏が終わり、ナポリへ戻ると、ヴィザのタイム・リミットが見えてきた。隙間のような時間さえ惜しむように、中村は「リストランテ・エ・ピッツェリア イル・ピッツィコット」(現在閉店)へ滑り込み、期日ギリギリまで窯前に立ち、「焼いて」帰国。
帰りたくなんてなかったのだ。
すぐにこの街へ帰ってくる、と決めて飛行機に乗ったものだから、日本に着いても心はナポリの方角を向いたままである。
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「日本ではなんかポワ~ンとしてしまって、ナポリが足りない、日本ってつまんない、と思いながら過ごしてました」
日本にはなくて、ナポリにあったものとはなんだったのだろう?
彼はひと言「自由」と答えた。
たとえば、感情を喜怒哀楽のままに表現していい、という自由。とりわけ日本では我慢しなければいけない「怒」のパート。伝えるにしてもオブラートに包めと諭されるネガティブ感情でさえ、ナポリなら「怒」は「怒」だ。
当然ながら、あっちでもこっちでもカッカと火花を散らす事態に陥ってはいるのだが、「向こうがはっきりとものを言うから、こっちもはっきりと言い返せる」ことに気づいた途端、楽になれた。
かつて大坪も「自由」に居心地のよさを感じる、と語っていたけれど、中村の言う「自由」は、少しばかりの痛みを持って聞こえてくる。
「ナポリでは戦っていい。嫌なことは嫌って言っていいんだ、って思ったんです。すべてにおいて〝許される〟範囲が広いというか……いいことも、悪いことも、ですけど」
・・・正直言って、彼らの(広すぎる)許容範囲についていけないこともある。それでも、空気を読まなければ生きづらい日本に対して、ナポリでは仕事でも人間関係でもその人の役割が明確にされていて、務めを果たしさえすれば認めてくれた。
役割以外の部分でどうか、みんなのなかでどうか、といったものさしはない。それが「一人の〝人間〟を見てくれている」気がしたのだ。
P134
「イ・デクマーニ」で働き始めたばかりの頃、なんでも覚えたい、自分でやってみたい中村は、同僚たちの嫌がる仕事も率先して引き受けた。もしも日本であれば褒めてもらえる、あるいは、若い者なら「当然」といわれる姿勢である。
だが、それを見たサルヴァトーレは「やめろ」と厳しく釘を刺した。
「一度引き受けてしまうと、あいつらは次から〝その仕事はお前がやるんだろ?〟と言って何もしなくなる。雑用がどんどん増えて、全部お前がやらなきゃいけなくなるぞ。ナポリでは、利用されないようによく考えて行動しなきゃ生きていけないんだ」
・・・
彼が中村に繰り返し伝えた、イタリアのことわざがある。
『Chi va piano, va sano e va lontano.』
ゆっくりと行く者は、着実に、遠くまで行ける。
慌てるな、飛ばし過ぎるな。そんな心配と一緒に、「お前は遠くまで行け」と願う親心も伝わってくる言葉だ。