きのうの本の、イ・ランさんのエッセイです。
友人の病気や自身の性被害など、苦しい話も含めて、言葉にできる限り表現されているように感じました。
P27
少し前にある化粧品の広告モデルのオファーがあった。「化粧品」というものを私が広告してもいいのかという悩みがまず先だったが、ギャラが少なくなかった。また、リップスティックやアイシャドウじゃなくて、化粧水や乳液だったので妥協してもいいと思った。ところで、なぜ私にオファーがきたのか気になったが、芸能人じゃないさまざまな職業の女性が出演するコンセプトだと聞いて納得した。・・・広告にはこの商品がなぜ私にとって大切なのかを伝えるナレーションが入る予定だった。ナレーションは事前インタビューでの私の答えをもとに構成されるということで、インタビューが先に行われた。ところが、インタビューの質問はどれも前もって答えが決まっていた。
「お肌のコンディションがよくない日はクリエイティビティが落ちませんか?」
「お肌とクリエイティビティの関係についてお話ししてください」
私の答えは「関係ありません」だった。肌が白くて透明感があってシミがなければいいというような広告は巷にあふれているが、芸能人でない一般人が出演する広告なら、どんな肌の人でも正直にさらけだしたほうがいいと思った(もちろん芸能人もその基準から抜けられるならもっといいと思う)。例えば肌が「きれいじゃないから」この商品を使うべきなのではなく、この商品の機能的な部分が必要だから使いたかったというように。でも、私の答えは彼らが望む答えじゃなかったのは確かだった。少ししてから「残念ですがご一緒できなくなりました。インタビューのお話には本当に感銘を受けました」というコメントが返ってきた。
この「魅力マーケット」で生き残るためには、彼らがきれいで素敵だと思う顔や体や言葉を維持して生きていなければならないのか、という思いをまた新たにした。なぜならそのギャラは誰にとっても少なくないお金だったし、そのお金があったら家賃を十回以上払えるお金だったから。それでも、インタビューで嘘はつけなかった。
以前、パリに招待されて公演をしたときも似たようなことがあった。国内のあるテレビ局の現地駐在記者が訪ねてきて、公演の後に短いインタビューがあった(報酬はなかった)。彼の質問も似たようなものだった。
「こうして海外で公演する気分はいかがですか?」
私の答えは、「わぁ、ヨーロッパで公演をするなんて本当に意義がありますし嬉しいです。とても新鮮です!という答えを期待されていたのかもしれませんが、私にとっては国内での公演とあまり変わりません。移動が長かったので到着してから目にした風景は目新しかったですが、観客の方々はこちらに住んでいるか留学中の韓国の方たちなので、ソウルや弘大での公演とこれといって雰囲気が違うわけじゃありません」だった。
ニュースには「わぁ、ヨーロッパで公演をするなんて本当に意義がありますし嬉しいです。とても新鮮です!」までが使われた。その後の言葉は丸ごとカットされた。それ自体がコメディみたいだった。この世はコメディショーみたいだ。
P56
いまも私の話に強い確信があるわけじゃないが、一人の人の話と記録に意味があり面白いのだということに徐々に気づいた。誰かに教えるということを始めてからは、なおさらそう感じた。・・・
・・・
「私は平凡な人間なんで」
自己紹介になるとこの言葉をよく耳にする。私は、私も自分の話に確信がなかったことを隠したまま、受講生たちを一生懸命応援し支える。互いに平凡だと言い張っていた受講生たちは十人いれば十人、みんな髪の長さが違う。ファッションのスタイルも、持っている鞄も違えば一人ひとり異なるノートやペンを持ってきた。なぜノートを持ってきたのか尋ねると、答えもさまざまだった。そうやってみんなの話が違うことを、そうやって違う話を聞くことが面白いということを、一緒にゆっくり感じながらワークショップを進めた。
・・・
・・・六週間あるいは八週間、誰もが自分は平凡だと言い張っていたのに、一人も同じ話をしなかった。その後、歌を一、二曲、あるいは映画のシナリオを発表したが、最後の発表を聞くときは、泣いている人もたくさんいた(その中で私がいちばんたくさん泣いていたかもしれない)。
それから日常に戻ってきて、うんざりするくらい繰り返される何事も起きない私の話を繰り広げ、誰かの応援を思い出そうと努力した。その誰かが思い出せないと自分で自分を応援した。ずっと前にカウンセラーの先生と一緒に書いたメモを机の引き出しに入れておいて、何度も開けては再び読んでみた。
私は自分のことを愛せる人だ。
私は自分自身を諦めずに、何があっても自分を育てていく人だ。
私はそうやって生きている人として、生活してゆくつもりだ。
P66
「いろんなことをしてて怖くないですか?」
「これをみんなやっても大丈夫だってどうしたら判断できますか?」
「いつ、どうやって完成というものを確信するのですか?」
二〇一六年に出したエッセイ集の刊行イベントで読者から質問されたものの一部だ。
・・・
私をネタにしてストーリーを作るためには、私を「観察」し「記録」することがものすごく大切だ。慣れれば自然とできるようになるが、そこにいくまでがかなり苦しい。電話中に回線が不安定で自分の声が反響して聞こえたことがある人もいると思う。そのときの自分の声はどうだっただろうか。それはもう聞き慣れない、「私」とは思えない声だったはずだ。声だけじゃなくて私が話し動いている姿をモニターすると考えてみよう。職業柄、自分の姿を常に観察してきた人でもない限り、相当なショックを受けると思う。顔の筋肉が動く様子、身振り手振り、歩き方や姿勢などなど。予想外にたくさんの部分が思っていたものと違うはずだ。自分がいちばんよく知っている人なのにもかかわらず相変わらず見慣れないし、それに加えて毎日新しい情報が追加されるから一生懸命観察するしかない。
エッセイ集の刊行イベントで、私は自分を観察してきた記録を公開した。この十年間に撮った数百枚の自撮り写真や動画、音声メモやノートのメモたち。私は自分を観察しながらストーリーの主人公として人物設計に穴ができないように情報をきちんとまとめておき、そのときそのストーリーの中で私が望むものがなんなのか見つめて把握した。そんなふうにたくさんの記録の中でたくさんのストーリーを発見してきた。自分自身で記録はしたものの、すべて思い出せるわけではないから「発見」と言う。映像や音声メモの中から見つけた歌は結局「私の歌」になり、落書きや文は私のマンガの素材になったり、シナリオの土台になったりした。
「きれい」な姿だけじゃなく、悲しくて汚くて酷い姿まですべて見て記録してあるから、後になって「発見」すると今までの苦労が報われた気持ちになる。こんなにも生きづらくほとんど地獄同然とも言えるような世界で今まで生きてきたことに、よくやったと、未来に受け取るご褒美を前もって準備できたような気がする。そうやって私にぴったりのレベルの労いになる歌、イラスト、文ができあがった。それを発見できて嬉しかったし、きっとほかの人たちも喜んでくれるはずだと思ってシェアできた。
私を観察してその中でストーリーを見つけて、それを歌ってそして書いて発表するということ、その楽しさや喜びは実際にやってみないとわからない。こんなに簡単なこともないのだ。
材料はそう、あなた自身で、すぐに今日からでも観察して記録をつけ始めればいい。私だってそうやって繰り返し私のストーリーを見つけて、また世間に発表するのだろう。