ニワトリと卵と、息子の思春期

ニワトリと卵と、息子の思春期

 ご近所さんへの説明も自分でやってニワトリを飼い始めた息子さん。

 こんな風な思春期もあるのだなー、すごいなあと思いつつ読みました。

 

P128

 ニワトリを入手して飼育、産卵開始が1シーズン目。販売開始、ヒヨコを仕入れた第2シーズン。そして、最終シーズンとして古株のニワトリを絞め、解体、料理して食べた。いまは〝一周したな〟という感覚。

 思春期の長男との一周は紆余曲折あってようやく辿り着いた、といったところ。〝株主として配当を得るような立場〟と書いたが、よい関係に見えてじつは逆だった。株主は会社の運営に口出しできるからだ。いや、実際はどこの家でも思春期は〝株主と会社〟のような関係なのかもしれない。自立しようとする子どもと、自立させたい親であるはずなのに、この関係がそれを阻止する。私が養鶏に口出しすると、「それはお母さんの考えだろ!オレはオレの考えでやってる」と猛反発。いまでも口論が絶えない。

 ただ、養鶏でよかったのは、それが命あるものであること。途中で放り出すことはできない。その意識だけは共通していたから、どんなに感情まかせに暴言を吐き合っても、息子は養鶏を続けてきたし、彼の不在時は家族がサポートしてこられた。子育てする夫婦にも似ているかもしれない。どんなにケンカしても、わが子という守りたいものが同じだから、協力し合うしかない。夫婦の鎹が子どもなら、わが家の思春期の鎹はニワトリだったのか。

 息子だけでなく、大人である私も〝わからないこと〟に多く関われたのもよかった。ひとつひとつの体験とともにわかったことも多い。もちろんわからないままのことも。とくに、殺して食べることは家族でも感じ方が異なり、あれでよかったのかわからない。発言力の弱い末っ子の声は、長男には聞き入れられなかった。いまはただ、それぞれの胸に投じられたものを仄かに感じながら暮らしている。そしてここからは2周目という気がしてる。この先の風景はどんなだろうと、ちょっと怖気づきながらも、少し楽しみにもしている私がいる。

 ・・・

 この原稿を書いていると、次男がやってきて言った。「ぼくもニワトリ飼いたい」と。え?あ、思春期?そうだ、もうすぐ彼は中学生。どうやらわが家の思春期にはニワトリがつき物らしい。

 

P153

 コロナ以降、長男のネット時間が大幅に増えた。・・・昨日は夜中の3時までネットで会話する声が聞こえていた。こう堂々と制限時間を無視されると、なめられている気がしてくる。・・・

「もうインターネット使わないでよ!お母さんが契約してお金払ってるんだから」

 インターネットはいま、大人だけでなく若い子たちにとってもライフラインの次に重要なもの。そこに〝契約〟〝お金〟という大人の特権が関わっているワードを出すと、長男は烈火のごとく怒り出す。効力がないどころか、火に油を注いでしまったような大惨事に。

「なにかっていえばインターネット禁止って卑怯だろ!」

 わかってる。この言葉は「あやまらないなら、もうお小遣いあげない!」と同じである。脅しであり、駆け引きの道具。それでも、こうしたチカラ技で抑えようとしてしまう。・・・

 ・・・

 長男がお風呂に入った形跡はあるのに、夕食にやってこない。・・・ん?あ、家出か⁉

 ・・・

「あやめの制服ある?」と私。

「あ、ない!持ってったんだ」と次男。

「通学カバンもないよ」と、冷静な夫。

 長男は今夜中帰ってこないつもりだ。でも、明日は学校にいくつもりらしい。なんだこの計画的な家出。・・・

 ・・・

 家族4人、長男のことを話題にしながら夕飯を食べた。家出はこれまでも何度かあり、家族もそれほど深刻に心配していない様子。これはこれで平和な食卓ではあるが、やはり落ち着かない。夕飯の片づけを夫にまかせて、私と次男と末っ子は近場を歩いてみることにした。・・・

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 1時間ほど歩くと、末っ子があくびしながら「そろそろかえろうよ。ニイニはかえってくるよ」と私に言い聞かせるように言った。隣にいた次男も「ぼくもそう思う」と。・・・ふたりとも〝お兄ちゃんは大丈夫〟と思っている様子。まあでも確かに、あてどなくウロウロして見つかるはずもなく、たださがしてるポーズをとっているに過ぎない。バカバカしくなってきた。帰ろう。

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 あとで聞くと、どうやら公園で虫に刺されながらひと晩過ごしたという。

「え、なんで?じゃあ雨はどうした。ネットカフェにいかなかったの?」

「雨が降ってきたから濡れないとこ探して移動した。そのとき濡れちゃったけど。ネットカフェとかは、市の条例で夕方6時から朝4時まで中学生は入れないんだよ。だから朝を待って入店して、シャワー浴びて着替えてから学校いった。こうやってさ、あちこち出入りできない場所ばっかりになると、中学生の居場所がないんだよ。そうやって家出する子は危険と知りながら、SNSとかで知り合った人の家に泊まるしかなくなるんだよ!コロナで都会の子はもっと窮屈だろうな」

 相変わらず独自の理論を展開する長男。中学生には家出する権利もないのか、と憤っているわけだ。・・・

 ・・・

 その後も、ちょっとしたことで口論し、同じような応戦をくり返し、相変わらずの日々は続いている。家出しかけたり、プイとどこかにいなくなったりも。でも、ゆるやかに流れが変わってきたような気がしている。

 ・・・

 長男が最近家出をしないのは、きっと暑すぎたから。涼しくなったらまた再開するんだろうな―。そんなこと思っていたら、本当に家出した。しかも、本の校了の翌朝から。たまたまなんだろうが、ナイスタイミングである。

「制服ある?」

「あるよ」

「じゃあ今日中に帰ってくるのかな」

「ニイニなんじにかえってくる?」

「でも朝から家出ってヘンじゃない?」

「確かに~」

「あ、わかった!昨日の夜から家出してたんだ」

「そうか、みんな早く寝ちゃって気づかなかったね」

「あはは!」

 なんだか……カジュアルだな。長男の家出にみんな慣れてきているからか。私もこの前とは感覚が違って、ずいぶん気持ちが落ち着いている。何か、手放せたのだろうか。

「生きてるかもしれないし死んでるかもしれないが、とにかく今夜は寝よう」

 あのとき、私はこう思った。気持ちを落ち着かせ、もう寝ようと自分を促していたわけだ。〝大丈夫、きっと生きてる〟ではなかったのは、自分を欺けない私らしさでもあるが、同時に〝死んでるかもしれない〟と思うことは、諦めることでもあった。どこをどうさがしても見つかりそうもない中で、もしいま危険にあっていても助けられない、そういう〝いま〟をやり過ごすしかないと。

 わが子という対象が生まれるときに、母というものが生じる。・・・もしそんなふうに母が子どもに依拠しているとしたら、子が死ねば、母も消えそうなもの。でも、自分を乗っ取られたと思ったほど、いまだ私の多くを占拠する母である。これが一気に消えたら私は大きな空洞だ。ただ、疑似的に子が〝死んでるかもしれない〟と思ったことで、私の中で母が少し死んだのかもしれない。・・・

 ・・・

 子が大きくなっても、なお母として手放し難いものは〝子の命を守る〟という使命感なんじゃないだろうか。いや実際に、それは母に課せられた使命だと思う。他の生き物に比べ、自ら生きられるようになるのがひときわ遅いのが人間。この使命感によって、子は母に守られ生きてきたはず。そういう意味では、母の儘ならなさも、すべてこの使命感に紐づいている気がする。守るというのは、そばに置いておけるからできること。離れ、出ていき、見失っては、もう守ることはできない。子を守る母には、つかんで離さない鬼が必要だったのか。そう思ったら、急に気持ちがラクになった。