贈与をめぐる冒険 新しい社会をつくるには

贈与をめぐる冒険――新しい社会をつくるには

 たまたま同じタイミングで読んだら、きのうの本の著者が帯に推薦文を寄せていました。

 

P164

 贈与は、モノの受け渡しや自己贈与を通して、人と人を結ぶものであった。ボランティアについて考察したように、生命が危険となるような災害が生じるとき、人は自分が安全だとわかっていれば、自分の持ち物や自分を贈与して他人を助けようとする。災害のとき、義援金が集まり、ボランティアが集まる理由がそこにある。贈与を通してのこういったつながりは、掘り下げていくと、人間のいちばん根本的な共同性を表しているのではないだろうか。

 というのも、こういうとき、人種、階級、職種、主義主張といった違いを越えて、人はつながるからである。これは、個々人がもっているアイデンティティをすべて捨て去ったところで生じる共同性である。ニューヨークの9・11の事件の直後やロンドンのコロナ禍で見られた、人と人のつながりは、まさにこれなのだ。平時では、ぼくらは肩書、性、国籍、肌の色などのアイデンティティにとらわれながら他人と接している。だから、ふだんはこういったつながりは忘れられており、無意識の底に押し込められている。しかし、決して失われているわけではない。誰もが心の奥にかかえているのだ。それが、災害のときなどに呼び起こされるわけである。

 アイデンティティというものは、ぼくは広い意味で所有物だと思う。職種や地位のように後から獲得されたものもあれば、性や肌の色など生まれながらにしてほぼ「所有」しているものもある。ぼくらは誰でもいくばくかの富や財産を所有しているが、それのみならずこういったアイデンティティも所有しているのだ。それ以外にも、何人かあるいは多くの人が共同で所有している共有財産があるように、主義主張などは賛同する人たちに「共有」されている。主義主張によるアイデンティティも「共有物」として所有されているのだ。

 災害のときに思い出される共同性は、こういった所有物を介してのつながりではない。肩書や地位によって関係をもつつながりでもなければ、主義の共有によるつながりでもない。何も関係をもたなくても何も共有しなくてもつながってしまう何かなのだ。

 しかもこれは、人間だけの特権ではない。クロポトキンは『相互扶助論』のなかで、動物から人間までお互いに助け合う習性があると論じている。動物も人間もこの点では同じで、お互いに贈与し合い助け合うのだ。贈与による根本的なつながりは、人間中心的なものではなく、人間と動物のあいだにはっきりとした境界線を引くことはできないのだ。

 ぼくらが共同体について今後考えていくのならば、贈与の根底に見い出されるこの共同性に基づく必要があるのではないだろうか。ぼくは資本主義も共産主義も全面的に否定はしない。しかし、無縁の状態を生み出してきた現状の資本主義にとどまっていても、あるいは共有財産による物質的な平等に甘んじる共産主義の発想を固持していても、こういった共同性は見えてこないだろう。もう一段深いところで共同性を考えていかなければならないのだ。

 贈与にはモノと人の精神的な交流という面がある。例えば、それは「自然の恵み」である。自然が贈与してくれるので人はそれに感謝しなければならないという発想である。これは人と自然との精神的な交流である。特に日本の伝統にはアニミズムの心性があり、山や川にも魂が宿ると考えられてきた。動物、植物から石ころに至るまで仏性をもつというわけである。だから、山で伐採した木々の霊を弔うために草木塔を建てたり、捕鯨の盛んな地方では、同じ理由から鯨寺や鯨神社が建てられたりした。そこには、大切な命をいただいたことへの罪悪感と感謝の気持ちという複雑な感情が反映されている。宮沢賢治の童話には、こういった感情を通して自然との交流がいくつも表現されている。

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 精神的な交流の対象は、自然だけではない。人間の作った道具にも同じような交流が見つけられる。

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 昔話では、道具が長いあいだ使われていると妖怪や精霊になると言われている。これを付喪神と言う。道具への愛着や感情移入が、こういう神を生み出していったのだ。

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 贈与を追求していくと、社会のあり方を変えることにつながる。

 農耕社会から現代の資本主義に至るまで、人は富の蓄積を当然のものとしてきた。それに対して、贈与は富を消費することであり、自分の所有物でなくすることである。贈与をその本性から考えていくと、富を放棄して他人に譲り渡すことにほかならない。・・・

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 そこで、ぼくが提案したいのは、農耕以前の「狩猟・採集」時代、つまり富の蓄積がはじまる前の時代にまでさかのぼって、贈与について考えてみることである。自然の恵みとしての贈与、人間がその一部である自然の循環、狩猟で獲得したものを分配するという贈与が、そこには見い出されるだろう。お返しを求めたりしないし富の蓄積にも貢献しない贈与の姿が認められると思う。こういった贈与は、その後の時代に贈与交換、さらには商業的交換に取って代わられたが、抑圧されながらもぼくらの思考の奥底で継承されているものである。

 誤解がないように言っておくが、ぼくの提案は「狩猟・採集」時代に戻ることではない。今の時代の諸々の知に太古の知恵を接続することにほかならない。

 半ば無意識に眠る贈与を明るみに出して現代社会に活かすことで、資本主義を問い直し「変質」させることができるのではないだろうか。そうすることで、人間の根本的な共同性に基づく共同体、人間とモノとの交流も徐々に実現できるのではないか、とぼくは期待している。