印象に残る言葉があちこちにある本でした。
P44
縫ったりするのは、けっしてうまくない。うまくできないことは、なかなか覚えられない。上達するのに時間がかかる。だから逆に、こういう仕事は自分にとって、長くやっていられそうな仕事だな、と思ったのだ。うまくできないことだからこそ、ずっとつづけられるんじゃないかと。妙な考え方だと思われるかもしれない。スキルとかキャリアアップの発想からすれば、得意でないものを四苦八苦してやっているのは効率も悪いし、ストレスだし、得るものが少ない―そう考えるのが普通だろう。でも、そうは考えなかった。この仕事は自分の得意なことではないから、長くつづけられそうだ、と当たり前のように思う自分がいた。
まわりの人にはできて、自分にはできなかったことが、一週間、二週間とつづけているうちに、だんだんできるようになる。この過程、この変化は、思っていたよりはるかにうれしいことだった。できない劣等感よりも上達するよろこびのほうがおおきいのだ。・・・
P46
骨折をして陸上を辞めたときから、行き先がなくなった自分をどうにかしたいと思っていた。行き先がないままでは、自分の未来が見えてこない。それもわかっていた。かといって、自分が行く先に向かって開けるべきドアのようなものが、いったいどこにあるのか―ドアの場所さえわからないありさまだった。
このパリでのアルバイト以降、自分のブランドを始めるまで、いくつかの仕事をすることになる。しかし、それはいつも「手伝わないか?」と声をかけられて始まるものばかりだった。自分でドアに向かって近づいていってこじ開けた、というのではない。ドアは壁と見分けがつかず、ノブもついていなかったからだ。壁の手前で自分にやれることをやっていると、壁と思っていたドアが向う側から開いた。そしてドアの向う側から、「入ってみるかい?」と誰かが手招きし、声をかけてくれるのだった。
・・・
・・・自分のことは自分がいちばんわかっているのだろうか。
他人は案外、自分の姿をよく見ているものではないか。ひょっとすると、自分が思っている自分より、正確に見ていることだってあるのではないか。パリでの最初のアルバイトから三十年以上が経ったいま、そのことをあらためて考えている。もちろん当時は、そこまで深く考えていたわけではない。偶然のなりゆきに驚きながら、ただ従っていただけかもしれない。でも、声をかけられたことに、いまも感謝している。自分も、声をかけることのできる人間でありたいと思う。
P130
ぼくの仕事の姿勢は妙に理想論的なものとして映ることがあるらしい。
工賃の安い海外に発注しないこと。国内の繊維産業の担い手の仕事を守ろうとしていること。セールをせず、お客さまの手元にある服の価値を維持していること。いまどきそのようなアパレルはないという見方から、それは皆川の正義感や義侠心からやってくるもので、利益を度外視したロマンチックな姿勢にすぎず、現実的じゃない、と言われることもある。そんなやりかたで長続きするのか、と。
利益を度外視した、とまで言われると、説明が必要になる。
ものづくりはどうあるべきか。それを正面から考えることが「正義」だとしたら、こう言うことができるだろう―「正義」から出発するほうが、かえって良い循環が生まれるのです、と。・・・国内の繊維産業と緊密に連携することで、価値の高い仕事を持続的に創造することができ、その結果として、お互いに収益を得られる仕組みになっているのです、と答える。
利益を度外視していたら、ミナはつづけられない。自分の信念にもとづいたビジネスをしながら、それが社会的な価値を生む―そういう考え方と姿勢をベースに、これからも服づくりをつづけていきたいと考えている。
P143
長江は、まったく人を疑わない。人を悪く見ることがないのだ。その純粋さは、ずば抜けている。創業してから今日にいたるまで、その人柄が摩耗することも目減りすることもなかった。いまもそのことにシンプルに驚かされる。
大学を卒業するまでの二年間、交通費だけの無給で働いてくれた長江は(賄い料理はぼくがつくったから、ささやかながら「食事つき」ではあった)、大学を卒業するとそのままミナに就職し、創業時からの苦労をともにした、ただひとりの人だ。
繰り返しになるが、白金台の直営店をオープンして利益が出るようになったとき、無給で働いてもらった二年分をこれからプラスして払うからね、と言ったら、今後はもっと人が必要になるし、お給料が増えることを励みにしてがんばる人もいるでしょうから、わたしはこのままでいいので、わたしの分もそういう人に使ってくださいと長江は言った。長江が言うのでなければ、いまどきリアリティをもたないかもしれない言葉だ。
二年間、タダ働きに近い状態でも、ぼくが負い目を感じないでいられたのは、長江の働く姿を見ていたからだ。邪念の入りこむ隙のない横顔が、黙っていてもそれをぼくに伝えてきた。ミナはぼくだけの夢ではない。長江にとってもそれは同じ、という横顔だった。働かされている感じなどどこにもなかった。長江が最初のアシスタントでなかったら、果たしていまのミナがあっただろうか。口を滑らせるようにして言えば、神さまのような存在があるとするなら、そこから遣わされた人のようだと感じることがある。・・・
ブランドのプレスとしては異色のタイプだと思う。現場を手際よく仕切ったり、誰にでも体裁よく接したり、お世辞を言ったりすることはない。いわゆる天然というか、ちょと抜けているところさえ感じられるかもしれない。・・・ヒエラルキーのなかで人を見ることがない。・・・長江もなにがいちばん大事なのかをわかっているから、余計なことに配慮する必要を感じないのかもしれない。
P217
・・・ただひとつはっきりしているのは、時が満ちる必要がある、ということだ。時が満ちなければ、夢のままで終わるだろう。思い立ったことでも、最終的に「やろう」と決意がかたまらない限り、無理に始めることはないと思う。この感覚は、いまも昔もかわらない。
P221
・・・人生には予期せぬことが起こる。このことばかりは、実感をこめて、そう思う。そして、仕事を始めてからも、仕事にも予期せぬことが起きてきた。
生きることも、はたらくことも、じつはほとんどコントロールできないのかもしれない、と思うようになった。完全にはコントロールができないなかで、手を動かしつづけること。ここから生まれるものが「つくること」なのだ。
コントロールできないおおきな海に浮かびながら、手と足だけは動かすことをやめないでいる。息もしている。海の下で動いている海流が、ぼくをどこかに運んでいるのがわかる。突然、目の前にあらわれた小さな島に、這いあがる。そこでなにかをつくりはじめる。
その島が、ミナペルホネンになった。
その島も、海流にのってどこかに向かって動いているのかもしれない。
P242
ものは、「よい記憶」をつくるためのきっかけだ。だからものそのものや対象そのものには囚われすぎないほうがいい。何をすべきかを考えるとき、ジャンルや事業の分類にはこだわらず、どんな「よい記憶」にしたいかということだけを丁寧に考えていればいい。つくるべきものがなんであっても、「よい記憶」となることさえ忘れなければ、おのずとやるべきことが見えてくる。
それがよろこびであるうちは、ものから輝きが失われることはない。