樹木希林さんの子どもたちへの思いを、内田也哉子さんがつないだ本。
4人の方との対話も収録されています。
こちらは2014年の、樹木希林さんへの取材から。
P16
私は、「それは違うでしょ」って言われた記憶がないのよ。私が何か間違えたとしても、「それは違う」と言わずに、「たいしたもんだね、この子は」と言って笑ってる(笑)。友達の家に遊びに行ったときは、その頃やっと出始めたビニールを持って泊まりに行くわけ。おねしょするから。それぐらい平気なのよ。隠すとか、そういうことじゃないの。うちは毎朝毎朝、布団を干すし。
そうやって他人と比較して、卑屈になるようなことはなかったから、それはやっぱり、親がえらかったと思うのよ。
―私の祖母も「誰かと自分を比べるような、はしたないことはダメ」と言ってましたが、その一言は、不登校だった私を支えてくれました。
日本の女の人って、昔はすごく優れてたと思うんです。お坊さんでもなんでもない、そこらにいるおばあさんでさえ、「人と自分を比べるなんてはしたない」って言葉を発する土壌があったのよ。
こちらは「不登校新聞」編集長の石井さんと内田也哉子さんの対話から。
P101
内田 実は、母は亡くなる3日くらい前に、急に「家に帰る」と言い出したんです。私は「いやいや、いろいろつながれてるのに帰れないよ」と思って、主治医の先生に相談したら、「本当に帰りたいなら、今を逃したらもう帰れないです」と言われました。正直、「なんでこのタイミングで」と思ったけど、病院も動いてくださって、2日後には家に帰れました。そして母は、戻ったその12時間後に息を引き取ったんです。
石井 ええ……‼
内田 家で、日常の中で死にたい、とずーっと言っていたその願いが本当に叶えられたんですよね。本人も〝上出来な人生だった〟と言って死にたいって、よく言っていましたから、本当に見事な最期でした。
石井 内田さん、それってすごい親孝行じゃないですか……。
内田 いやいやいや‼本人がそれを察知していたのがすごいと思っていて。母はものすごい感性の鋭い人だったから、自分の最期を感じ取っていたんでしょうね。動物的な本能が動いたとしか思えないくらいに。私たち家族は、ただただ次から次へと起こるいろいろなことに対応していただけ。まさかそんな、その日の夜に死ぬとは思っていませんでした。
そうそう、『学校へ行きたくない君へ』の中で内田樹さんが、人間が受け取る情報の7割は〝皮膚感覚〟からとおっしゃっていたじゃないですか。
石井 はい、はい。
内田 本当にそうだと思うんです。母は、理屈じゃなく「あ、今だ」と感じることとか、そういうことへの感度がすごく高かったのかな。もしかしたら私を育てているときも、本当はいろんな壁にぶつかったんだけど、そのたびに「これは大丈夫」「ここまでは大丈夫」というのを感じ取っていたんじゃないかとさえ思います。だからこそ、「なんの根拠でそれ言うの?」って思うことがたくさんあったんだけれども……。
石井 ご本人も、説明しろと言われても難しいんだとか。
内田 そういうことだと思います。でもなかなか、普段生きていると、いろんな情報に押しつぶされちゃって、感覚だけでは選びきれないじゃないですか。生きるって、常に選択をしていかなきゃいけないわけだから。だから、母はそれをすごく上手に、75年の生涯だったけれども、やってきたんだろうなあと思います。