すごいなぁ、こんな風にも生きられるのだなと驚きました。
P20
母の異変に気づいて呉市の実家に帰ったのは、2012年6月のことでした。
母はいつものように笑顔で迎えてくれ、私の好きな魚料理が食卓に並んでいて安心しました。ですがこの時、やたらと父に対して母の当たりが強くなっていました。母はもともと父を立てるタイプで、父に逆らったことなどなかったのに、二人の関係が逆転していたのです。
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母も、離れて暮らしている娘の私には気を遣っているのでしょうが、父には容赦ない。きっと、自分が壊れてゆく恐怖をひしひしと感じていて、唯一甘えられる父を攻撃することで恐怖を少しでも振り払いたいんだ。そう直感しました。
でも母に理不尽に怒られてばかりの父はよく我慢しているなあ。それが不思議だったのですが、ある時、父がポツリとこう言ったのです。
「直子もお母さんを傷つけるようなことは言うなよ。お母さんが一番不安なんじゃけんの」
ああ、父は全部わかっているんだ。その上で母をいたわり、支えようとしているんだ。私は父の度量の広さに感動しました。
P30
母が認知症と診断されたその日。父に尋ねました。
「私が呉に帰ってきた方がええかね」
母と二人暮らしの父は、この時93歳。これから始まる介護を、父一人に担わせるのは酷だと思ったのです。
しかし父は、言下に断ってきました。
「いや、あんたは帰らんでもええ。わしが元気なうちは、わしがおっ母の面倒をみるけん」
それはいかにも父らしい答えでした。父は私が仕事を辞めて東京から帰ることを、自分の挫折のように感じるのでしょう。
大正生まれの父は、戦争で言語学者の夢を断たれました。よほど無念だったのか、90代になった今もなお語学の勉強を続けていますし、私には昔から「自分の好きなことをやりなさい」と言い続けてきました。
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連載のタイトルを「認知症からの贈り物」としたのはなぜか。その話を書きたいと思います。
誰だって認知症にはなりたくありません。家族が認知症と診断されたら、絶望的な気持ちになって当然です。もちろん私もそうでした。でも、この病気と長くつき合ううちに、こう思い始めたのも事実なのです。
「母が認知症になったからといって不幸なことばかりだろうか?だからこそ気づけた素敵なこともあるんじゃないか?」
私にとって認知症からの最大の贈り物は、父が案外「いい男」だと気づけたことでした。
母が元気な頃、父は空気のような存在でした。いつもにぎやかなのは母と私の女子チーム。父は静かに本を読んでいるだけで、おもしろくも何ともない。正直、父がどんな人かなんて興味もありませんでした。
しかし母が認知症になると、父はメキメキ存在感を発揮し始めたのです。母のできなくなった家事を、母を傷つけないようにさりげなく肩代わりする父の姿に、私は目を見張りました。93歳の父が掃除機をかけ、洗濯をし、母の好物のリンゴをむいている……。それまで家事を何ひとつやったことのなかった父。包丁を使うだけでも驚きだったのに、しまいには裁縫箱を取り出して、母のスカートのほつれを繕うことまで始めたのです。
「何でそんなことできるん?」
思わず聞くと、
「陸軍で上官からしごかれたけんの。飯炊きも裁縫も一応のことはできるんよ」
ああ、私は父のことを何も知らなかったんだな。戦争に行った話も聞いたことがなかったし……。これからでも遅くないから、父をちゃんと見よう。そう反省しました。
見直してみると父は、強さと優しさにあふれたいい男でした。「母をここまで体を張って守れるなんて理想の夫かも」とすら思うほどです。これは明らかに「認知症がくれた贈り物」と言えるのではないでしょうか。
P42
鮮明に覚えている両親のやりとりがあります。母が認知症と診断されて数か月後のこと。母が父に、出し抜けにこう聞いたのです。
「お父さんは、私が物忘れしよるけん、心配なん?」
お母さん、いきなり何を言い出すんね?私は肝を冷やしましたが、父はさらりと答えました。
「そりゃあ家族じゃけん、心配よ」
「お父さんは私が恥ずかしい?迷惑な?」
「いや、そうなことはないよ。あんたができんようになったことは、わしがやりゃあええだけじゃけんの」
「ほんならえかったわ。ありがとね」
「わからんことがあったら、何でもわしに聞けえよ。あんたが覚えとかんといけんことは、わしが代わりに覚えとっちゃるけん」
「ほんま?ありがと。そうするわ」
この話はそれで終わり。その後は何事もなかったかのように別の話題に移りました。
私は母の奇襲に驚きましたが、それよりも父の率直さに感動していました。私だったら、母に「物忘れ」なんて単語を出されたら、慌てて「そんなことないよ」と否定していたでしょう。母を傷つけたくないからと言い訳はできますが、本心はいい娘を演じたいからです。でも父はそんなごまかしはしません。母が気にしている「物忘れ」をさらりと認めた上で、自分の思いを伝え、母を安心させたのです。
父はおそらく、母を介護しているという意識はあまりないのだと思います。ただ、母と一緒に一生懸命、毎日を生きているだけなのでしょう。60年間、夫婦で積み重ねてきた毎日を。
父は母に、こうも言っていました。
「たまたまあんたが先に具合が悪うなったが、わしが先ならあんたに面倒見てもらうんじゃけん、お互いさまよ。気にすることはないよ。しょうがないことじゃけん」
自然体でぶれない父は、母には相当心強かったでしょう。私も年をとった時、こんな境地に達したいものだとひそかに憧れています。