全員がサラダバーに行ってる時に全部のカバン見てる役割

全員がサラダバーに行ってる時に全部のカバン見てる役割 (幻冬舎文庫)

 歌人芸人の岡本雄矢さんの、短歌とエッセイ。

 なんともいえない味わい、おもしろかったです。

 

P239

 くるくると回すタイプの窓を開け助手席から母親が見送る

 

 先日、知り合いの人と自動車の話題になった時の話。

「今はくるくると手動で開けるタイプの窓が少なくなってきたよね」と僕が言うと、知り合いの人は言いました。

「今、そんな車乗ってる人いないから」

 説明しておくと、今の車は「パワーウィンドウ」といって、ボタンを押すだけで窓が開きます。しかも、運転席にはたいていすべての窓を操作するボタンが付いているので、ドライバーが後部座席の窓を開けることも可能です。しかし昔の車は、手動で各窓の下に付いているハンドルをくるくると回すことによって、窓を開けていました。運転席にすべての窓を操作するハンドルが付いていることはなく、各窓の下に付いているハンドルをくるくると回すことでしか、窓を開けることができません。

「今、そんな車乗ってる人いないから」と言われましたが、僕の実家の車は、今もそんな車です。手動でくるくると回して窓を開けるタイプの車です。

 この前、両親の用事が、僕の仕事場に近いということで、そこまで送ってもらえることになり、僕は実家の車に乗りました。父親が運転をして、助手席に母親。後部座席に僕。あんな話をした後なので、車も、なんならこの家族自体が、時代に取り残されている気がしてきます。

 仕事場に着き、僕が降りると、母親が助手席の窓を開けて見送っています。特になにか言うわけではないのですが、くるくると回して開けた窓から、僕が見えなくなるまで見送っています。

 今の時代にもうないはずの窓は、ないけどあります。

 今の時代に生きている両親は、なるべく長くいればいいなと思います。

 

P289

 本書『全員がサラダバーに行ってる時に全部のカバン見てる役割』(以下、サラダバー)が単行本として刊行される際に、岡本さんと対談の機会を得た。

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 対談はリモートではあったが、顔を見てお話できるのは初めてで、とても楽しみにしていた。

 しかし対談当日、岡本さんは暗闇だった。

 正確に言うと、暗闇、というわけではない。光はあった。だけど何もわからなかった。・・・

 そしてそこにいる(とは思うが定かではない。なにせ見えないのだから)人はただ、すみません、本当にすみません、と謝罪の言葉を繰り返していた。約束の時刻を過ぎていたからだ。パソコンがどうしようもなく重く、スマホの画面がひどい状態なので、なんとかパソコンで入ろうと思ったけれどうまくいかなかった、といったことを伝えながら、こちらが、大丈夫ですよ、と話してもなお、気の毒になるくらい謝っていた。

 サラダバーの作者がそこにいる、と思った。岡本さんを見ていると(繰り返すが見えてはいないけど)、読んでいた岡本さんの文章が、さらに説得力を増して感じられた。・・・

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 話を本書の内容にうつすと、ここに収録されている短歌もエッセイも、どれもささやかに情けなくて、ささやかに不幸だ(時に、ささやか、の範疇を超えている場合もあるけれど)。

 セリフが具体的に書かれていることも多く、まるっきり同じシチュエーションというのはなかなか存在しないにもかかわらず、「知ってる!」と言いたくなる。見たことのある光景で、抱えたことのある感情だ、という気持ちにさせてくれる。そして同時に、ここで岡本さんはしっかりと立ち止まるのだな、と驚かされる。

 書かれている光景も感情も、ともすれば、日常の中で通り過ぎてしまいそうになるものだ。絶対に世界の真ん中ではないし、果てでもない。なんてことのない場所で、特別じゃない出来事。

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 ここで一首引用する。

《見上げても見上げなくてもあの雲はなににも似てない形をしてる》

 これはエッセイではなく、短歌のみで並べられたうちのものだが、最初に読んだときに驚いてしまった。空に浮かぶ雲が何かの形に似ている、というモチーフは、詩歌だけではなく、絵本や小説などでも多く使われているものだが「なににも似てない」なんて。今までわたしは「なににも似てない」雲を数えきれないほど目にしていたにもかかわらず、それを短歌にしようなんて、一度として思ったことがなかった。だからこそ驚いたのだ。岡本さんはこんなにも逃さないのか、と。

 そんな驚きを含みつつも、基本的には、とても気軽に楽しく読める一冊だ。

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 最後に、個人的な約束の話を備忘録のように記してしまうが、リモート対談での遅刻のお詫びとして、岡本さんからは、いつかアイスをおごります、という言葉をもらった。買ってもらう商品の目星はもうつけているので、一日も早く実現してほしい。そして例の短歌を繰り返してもらいたい。ひっそりと願っている。

《おごるって言ったのはアイスの話で、それチョコレートパフェじゃねーかよ》