知らなかった女子競輪の世界・・・こんな人生もあるんだ~と驚く方ばかり登場するので、先が気になってぐいぐい読んでしまいました。
そのぐいぐい読み進んだ辺りは、話が長く一部引用するのが難しかったので、その周辺で印象に残ったところを書きとめておきます。
P203
・・・世界選手権のスプリントで十連覇を達成した中野浩一。・・・
・・・中野の十連覇を陰で支えたのも長澤であった。メカニシャンとして海外遠征に同行して、今でも誰も破ることのできない大記録の達成をサポートした。
そうしてナガサワの名は世界に知れ渡った。
「イタリアには、五年八ヶ月いたさ。千葉に帰らず大阪に来たのはよ。自転車の部品作ってる工場の九割が大阪だったんさ。シマノさん、新家工業、他にも部品屋が結構あったからよ。イタリアにいて、そういうところと密着してやるのが重要って身に染みてたんさ。近いと、こんなん作ってって言いやすいし。行くとすぐやってもらえんだろ。あとよ、杉野鉄工所っていう自転車のクランク作ってた工場が、大阪に来んなら置き場を貸すから使いなって言ってくれてよ。当時、子どもできたばっかりなのに金もねえし、こりゃ大阪しかねえってなったわけよ」
・・・
「おいそうだよな?あん時、俺のポケットに入ってたの百ドル札一枚だったよな」
長澤と大学時代からのつきあいで、イタリアの下宿でも一時は同棲していた奥さんが、バラエティ番組から目を逸らさずちいさな相づちを打つ。
イタリアへ行く時も帰ってくる時も貯えのない長澤だったが、フレームビルダーとして築き上げた技術だけはしっかりと持ち帰ることができた。
帰国後、間借りしたままの大阪の工房。世界のといわれるようになっても、長澤はこの場所を動かないでいる。・・・
・・・
「なあ、スポーツの基本ってなにか知ってるか?」
こちらを見る様子もなく長澤は話し出す。
「遊びだよ。子どもの時は誰だって楽しく駆けずり回ってんだろ。あの延長戦よ。大人になってそれを忘れてるんさ、好きだってこと。そう最初はみんな好きで、その世界に入ったはずなんさ。俺も毎日フレーム作ってるけどよ。一時間でできても一時間半かけたくなる」
工房にやってくる競輪選手にも口をすっぱくして伝えた。
「遊びってこと、忘れんなって。藍野美穂にもシンドイと思ったら絶対乗るんじゃねえぞって言ってるさ。焦ると落車してケガするからな。プレッシャーなんか絶対かけねえよ。危険なのは競輪学校の記録会とかランキング。あれは選手にとって案外大きなプレッシャーさ。だから上にいるやつは消耗してそのうち落車して辞めるしかないけど、楽しくやってりゃ一段ずつ上がる楽しみがあんだろ」
長澤の工房に、競輪学校の合格報告をしに美穂がやってきた。
「友だちだかと一緒に来たんだけど。ありゃ論外、選手のレベルじゃねえ。ただの素人。でもよ、好きで乗ってんだから求めるもんねえだろ。子どもが好きで乗んのと同じよ」
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「競輪学校の成績がドベ(最下位)らしいけど。まあ誰かが必ずドベになるしな」
・・・
「怖いからね、大人になって興味を持ったやつは。遊びを覚えたばかりの子どもと一緒だからよ。それに比べてちいさい頃からやってたやつらは中高の部活で管理されて遊び心がねえからよ。一度ダメになるとがくっと落ちちまうんさ。でもゼロのやつはどこまで行くかわからねえ」
P267
・・・「最高の競輪選手は?」と誰かに聞かれたとしたら、私は迷わず女子競輪一期生たちの顔を思い浮かべると思う。
熱い阪神タイガースファンである安田利津子は、二〇一三年の春に脳梗塞で倒れた。目が覚めて医者から自分の病名を聞かされた時、「それやったら長嶋茂雄と同じやん!」とライバル球団の英雄の名前を叫んだ。その後、日課であったウォーキングで甲子園球場を三周回るまでに回復、八十歳になった。「今年は期待してええんとちゃう?」と、『六甲おろし』の歌が響く町での応援が続いている。賞品を置いていた蔵があった家は今、地震で亡くなった兄の息子がひとりで暮らしている。
キンタこと松川光子は七十六歳になった今も豊中の治療院で働いている。愛用のバイクの運転も健在。高齢の患者の数はさらに増えて、出張治療のスケジュール管理も忙しい。暇を見つけては公営のスポーツセンターで、筋トレとジョギングをしてじっくり汗を流している。・・・