自分供養

絶望読書 (河出文庫 か 34-1)

 この辺りも印象に残りました。

 

P172

 金子みすずの詩は、かわいらしく、美しいです。

 明るさや希望を感じる人も多いでしょう。

 しかし、一方で、どきりとする鋭い暗さも持っていると思います。

 たとえば、私の好きな詩を、短いものなので、まるごとひとつ引用させていただきます。

 

 「さびしいとき」金子みすず

 

 私がさびしいときに、

 よその人は知らないの。

 

 私がさびしいときに、

 お友だちは笑うの。

 

 私がさびしいときに、

 お母さんはやさしいの。

 

 私がさびしいときに、

 仏さまはさびしいの。

 

 絶望したことのある人なら、この気持ちがよくわかるでしょう。

 逆に、絶望したことのない人には、これは書けないのではないでしょうか。

 私自身も、自分が難病になって悲しみのどん底にいるとき、世間の人たちはみんなまったく関係なく、楽しく日々を送っていることが、なんだか不思議に思えました。

 もちろん、不思議に思うほうがおかしくて、そんなのは当然のことなのですが、そういうときには、そんなふうに思えてしまうものです。

 ・・・

 ・・・孤独なさびしさのときに、この詩を読んだら、どんなに救われるでしょう。

 そういう詩だと、私は思います。

 

P180

 絶望したときには、絶望の書を読むのがいいと言っておいて、落語をおすすめするのは、矛盾していると思われるかもしれません。

 落語は笑える楽しいものではないかと。

 でも、落語は決してただ明るいだけのものではなく、じつはとても絶望的なものでもあるのです。

 ・・・

 何百年も前に作られた落語で、今でも人が笑うのは、それがいつの時代も変わらない、人間の「ダメさ」を描いているからです。

 ・・・

 難病になったとき、友達から「壊れたねー」と言われましたが、本当にそうだと思いました。

 ・・・

 自分はもはやダメになってしまったと。

 そんなときに、ダメな人間ばかりが出てきて、それでもなんとか生きている落語は、とても救いになりました。

 ・・・

 これは後から知ったのですが、

「人間の脳は、音声に集中すると、その他の考えが浮かびにくい特性がある」

 のだそうです。

 だとすると、いろいろ悩み事があるときには、そういう意味でも、落語を聴くのは、救いとなるかもしれません。

 ・・・

 落語を聴くとしたら、まず何を聴くかですが、これは個人的な好みも入りますが、なんといっても桂米朝だと思います。

 桂米朝は、ギャグで笑わせようとはしません。人間のおかしさで、物語の面白さで笑わせてくれます。これは天と地の差で、ただのギャグでは、絶望しているときに聴いていられるものではありません。

 ・・・

 絶望しているときに落語を聴くと、最初は、大笑いの声とか入っていて、「とてもこんなものを聴く気分ではない」と思うかもしれません。こっちは泣きたい気分なのにと。

 でも、だんだんとしっくりくるはずです。

 落語の笑いは、絶望にも寄り添ってくれる笑いなのです。

 ・・・

 ・・・落語の明るさは、立派な人間になれないこと、立派な考え方ができないこと、立派なことができないことを、たしかにダメだけど、それが人間というもので、それもまた愛おしいではないかと、大きく包み込む明るさなのです。

 

P252

 ・・・心理学の研究の記事です。

 心に傷を負うほどのつらい経験をした後、それを乗り越えて、かえって精神的に成長する人たちもいます。

 第一部で引用したように、「逆境が人格を作る」とトルストイが言っていますし、「真に向上するのは不運の時だ」とシラーが言ってますが、たしかにそういうこともあります。

 そういう人たちについての研究です。

 そういう人たちは「創造性」が高まっているというのです。

 ・・・

 しかし、もちろん、逆境を経験すれば、誰でも自然と創造力が向上するわけではないでしょう。なにしろ、乗り越えられない人もたくさんいるのですから。

 ・・・

 海に突き落とされれば泳げるようになるというより、突き落とされて必死で泳いだ者だけが助かるように。

 いずれにしても、創造性を高めることが、乗り越えるための鍵となるということです。

 本書でも述べた、「人生脚本」の書きかえのために、創造力が必要とされるのでしょう。

 そして、そのときには本が大いに手助けになるはずです。

 

P264

 本書の第一部や「あとがき」には、絶望とどうやってつきあっていくか、ということについて、根本的にだいじなことが書いてある。

 たとえば、先述の<十三年間の絶望>という短くない期間は、頭木さんが学生時代に難病を患ったときに始まった。未来の可能性の多くを剥奪されたと感じる体験だったようだ。・・・

 ・・・

 絶望や悲しみ、恐れや怒り、憎しみ、恨みといったネガティヴ感情は、「立ち直らなければいけない」「許さなければいけない」「忘れなければいけない」と理屈で押さえつけて我慢・抑圧・否認してしまうと、あとになってネガティヴをこじらせてしまう。

 このことを知らない人は多い。三〇代までの僕も、こんなこと知らなかった。

 でも、我慢しようとするのも自分だけれど、絶望したり怒ったりしているのもなにしろ自分だ。絶望も怒りも、まずは感じきること、その感情を持っている自分を取りあえず認めてやることが必要なのだ。

 絶望そのものと化してしまった自分を否定しない。自分を成仏させることが難しくとも、せめて泣く赤子に寄り添うように、自分に寄り添ってみる。いわば自分供養。これが立ち直りの第一歩、いや、その第一歩を踏み出すための靴選びくらいの、ベーシックな作業なのだった。

 自分供養の期間は、絶望の期間だ。その期間が過ぎ去るには、

<何週間もかかることもありますし、何カ月もかかることもあります。

 ときには、何年ということも>(七頁)

 その期間をどう過ごすのがいいのだろうか。頭木さんはこう説いている。

<自分には誰もいないと思ったとき、それでも本はいてくれる>(九〇頁)