絶望している時でも、読める本、聴ける落語・・・この方だからこそ書ける、なかなかない本だと思いました。
P8
絶望からどうやって立ち直るのかという本はありました。
励ましてくれるような本もたくさんありました。
絶望するな、という本もありました。
でも、絶望している期間を、どう過ごせばいいのか、という本はありませんでした。
絶望において、いちばん大切なのは、じつはこの時期の過ごし方だと私は思います。
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・・・起き上がれないときを、倒れたままでいるときを、いかに過ごすか。
それが結局は、立ち直りにもいちばん大きく影響します。
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そこで、自分自身の十三年間の絶望体験をもとに、絶望の期間をどう過ごせばいいのかについて書いてみました。
過去の自分がそういう本を読みたかったからです。
P39
・・・作家のカフカに、こんなエピソードがあります。
ある日、カフカが恋人のドーラといっしょに公園を散歩していると、ひとりの少女が泣いていました。大切な人形をなくしてしまったのです。
カフカは少女に声をかけます。「お人形はね、ちょっと旅行に出ただけなんだ」
次の日からカフカは、人形が旅先から送ってくる手紙を書いて、毎日、少女に渡しました。
当時のカフカは結核の症状が重くなってきていて、残された人生は一年もありませんでした。
しかし、ドーラによると、小説を書くのと同じ真剣さで、カフカは手紙を書いていたそうです。
人形は旅先でさまざまな冒険をします。手紙は三週間続きました。どういう結末にするか、カフカはかなり悩んだようです。
人形は成長し、いろんな人たちと出会い、ついに遠い国で幸せな結婚をします。
少女はもう人形と会えないことを受け入れました。
この話をドーラから聞いた、カフカの親友の作家ブロートは、自分の本に書くときに、最後のところを少し勘違いしてしまいました。
カフカが最後に少女に、別の人形を渡して、「旅をして少し変わったんだよ」と言ったというふうに。
なので、そういうエピソードとして広く知られてしまいました。
でも、このちがいは、じつはとても大きなちがいです。
ブロートの話のほうだと、人形の外見が変わってしまったことの言い訳のためだけに物語を書いたことになります。そんなことなら、カフカはこれほど一生懸命にならなかったでしょう。
ドーラは、カフカが物語の結末に悩んだことについて、こう書いています。
「この結末は、ちゃんとした結末でなければならなかった、つまり玩具をなくしたことによって呼び覚まされた無秩序に代わる秩序を、可能にしなければならなかったからである」(ハンス=ゲルト・コッホ編『回想のなかのカフカ 三十七人の証言』吉田仙太郎訳 平凡社)
言い方が少し難しいですが、つまりは次のようなことです。
少女にとって人形をなくしたことは、大切な人を失ったかのような悲しみです。
少し大げさな言い方をすれば、これまでは人形のいた人生だったのに、これからはもう人形のいない人生です。
少女は絶望し、その新しい人生を受け入れかねていたのです。
この混乱した人生を、いかにして安定させるか。新しい秩序を与えるか。
カフカは物語の力によって、それを行ったのです。
そして、少女は、人形がいない人生を受け入れて、その新しい人生を笑顔で生きていく気持ちになったのです。
新しい人形を渡すのでは、人形のある人生に再び戻すということで、それでいいんだったら苦労はしません。
喪失によって混乱した人生に、新しい秩序を与える。それこそが物語の力であり、カフカが少女のために頑張った理由でしょう。
P114
実話だったら日の目を見ないようなネガティブな真実を、物語は描き出してくれます。そこに、実話にはない、物語の価値があります。
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たとえば、『アルジャーノンに花束を』という小説をご存じでしょうか?
ダニエル・キイスの書いた、世界的ベストセラーで、多くの人たちに感動を与え続けているロングセラーでもあります。舞台化も映画化もドラマ化もされています。日本だけでも、累計発行部数は三百万部を超えているそうです。
そんな大人気の本でさえ、じつはこんな誕生秘話があるのだそうです。
作品を書き上げたとき、まず読んでくれた親友フィル・クラスの「これはまちがいなく古典になる」という言葉に自信を得て、これを<ギャラクシイ>誌にもっていった。ところが編集長のゴールドから手直しを迫られた。「結末がうちの読者には暗すぎる。チャーリイは超天才のままアリス・キニアンと結婚する、そして幸せに暮らす」こういう結末にすれば掲載しようという彼の言葉にキイスさんは愕然とし、黙ってその場を立ち去った。フィルにこの顛末を話すと、彼はこう言った。「もしきみが結末を変えようなんて気を起こしたら、おれはきみの両脚を野球のバットでたたき折ってみせる」
この小説はもともと中編だったのですが、その後、キイスは加筆して、長編にします。その長編の出版のときにも、また同じことが起きます。
だがこの長編でさえ、またもやハッピー・エンドを要求する編集者に拒絶された。そしてさらに大手出版社二社にも断られ、追い打ちをかけるように別の出版社からも拒絶の手紙が送られてくる。「私の『アルジャーノンに花束を』の花は萎れてしまうような気がした」
(「キイスさんに伝えたかったこと」小尾芙佐『SFマガジン』二〇一四年九月号)
それでもなんとか引き受けてくれる出版社があって、この本は無事に世の中に出ることができました。
もし、親友フィル・クラスがいなかったら、キイスの心がもう少し弱かったら、この小説の結末はハッピー・エンドになってしまっていたかもしれません。
そして、この小説を読んだことのある方ならおわかりでしょうが、もしそうなっていたら、この作品は決して今のように愛され続けることはなかったでしょう。
P123
絶望読書の大切さについて語ってきましたが、私は決して絶望をすすめているわけではありません。
絶望の名言集などを出しているせいで、そう誤解されることもありますが、まったくちがいます。
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本は、暗い道を歩く連れになってくれるだけでなく、現実を照らし出してくれる懐中電灯でもあります。
暗闇に光を求めるからこそ、私は絶望の物語が必要だと思うのです。