川内有緒さんのエッセイも、夫のイオさんのエッセイも好きなので、楽しく読みました。
小屋を作るの、こんなに大変だとは・・・でも面白そう・・・
P171
作業の様子をしょっちゅうSNSにあげているせいか、「なんのために作っているんですか」と聞かれることも増えた。
ええと……なんででしょうねえ……うーん。
悪いことをしているわけでもないのに、しどろもどろになった。もともとは「都会育ちの娘に自然の風景を見せてあげたい」とか、「D.I.Y.を通じて生きる力を身につけたい」などの目的があったが、毎回とにかく目の前にある作業をこなすことで精一杯である。・・・
作業自体は、「楽しい」「苦しい」「面倒臭い」のトライアングルをグルグルしている。現実には木材はずっしり重いし、腰は痛むし、暑さも寒さもキツいし、雑草の勢いには勝てないし、交通費や材料費だってかさむ。ああ、なんでこんな面倒なこと始めちゃったんだろう?同じお金と時間を使って、プールサイドで寝そべってイタリアンジェラートを食べたりすることもできたのに―。
面倒くさがっているわりに、さっさと完成させたいとも思わなかった。だって、今年中に絶対に終わらせよう、ファイト一発!というような目標を立ててしまうと、どうしても目的地までの最短経路を探してしまう。それがイヤだ。
いつの頃からだろう、わたしは、効率とかコスパとか、そういう類の言葉に疑問を覚え、少し距離を置きたいと思うようになった。コンサルタントとして働いていた時代にそういった単語を酷使しすぎて、パワーポイント界の呪いにかかってしまったのかも。四〇代にもなったわたしは、むしろ世の中、そして自分のなかに蔓延する効率主義や能力主義的なものに抗っていきたいとすら思っていた。
いや、わたしが依然従事していた仕事では、税金を使ってプロジェクトを動かしていたので、効率も能力もアウトプットも非常に重要だった。それらをきちんと計測することで無駄をなくし、世の中に結果を示すことができるのだ。その仕事は決して嫌いではなかった。しかし、同時にそういうものと全く関係のない文化やアート、神話や言い伝え、ただぐうたらする休日、橋の上で楽器を弾き続ける人々なども愛していた。そうして国連を辞めた頃から、もういいや、わたしはわたしのペースで進もうと決めた。だって、誰の人生でもない、わたしの人生だから。目標を立てて、正解に向かってまっすぐ進むだけが人生ではない。むしろ多少の適当さや無駄とも思える回り道こそがわたしの人生に喜びを与えてくれる。ゴールに向かうためにプロセスがあるのではなく、プロセスの中にこそゴールがあった。計画性を放り出したとき、わたしたちは「今ここ」に集中し、未来から解放され、自由になれるのだと思う。
P177
出発の一〇分前になっても、ナナはせっせと泥をこねくり回している。長靴は柄がわからないほどドロドロだ。これでは、手を洗うのも時間がかかりそうだ。気がつけばバスの出発時間が迫っている。
そろそろ行く時間だよ、終わりにしよう、と声をかけたそのとき、ナナが意外な行動をとった。いきなり長靴を両方ともぽーんと脱ぎ捨て、素足のままじゃぼんと水たまりの真ん中にしゃがみ、泥だらけになった。ひええ!
「えー!ナナ!ちょっと何やってんの?」
イオ君が大きな声を出すと、ナナは、あれ、わたし何か悪いことをしたの?というように水たまりの真ん中に座ってキョトンとしている。イオ君は珍しく苛立って見えた。実はナナはこの直前にも別の水たまりで全身びしょ濡れになり、急いで着替えをさせたばかりだった。
イオ君が再びさっとナナを泥の中から引き上げ、服を脱がせる。モリウミアスのスタッフの人たちが素早くナナを水場に連れて行く。その間にわたしはバスに積み込んだ荷物の中からズボンとパンツを引っ張り出した。三者連携プレイにより二分で着替えさせることができ、時間通りに出発することができた。
家につくと、泥だらけのズボンとパンツを洗面台ですすぎ、洗濯機に放り込んだ。楽しい二日間だった。きれいな風景をたくさん見た。美味しいものも食べた。それなのにどうしてだろう、わたしは翌日になっても、その次の日になっても、泥の中に座り込んだナナの姿が頭から離れなかった。
きょとんとした顔。
泥だらけのズボン。
もし、あのまま何も言わなかったら、次に何をしたのだろうか?
泥の中に全身でダイブしていって、ドロドロぐちゃぐちゃになったのかも。その姿を想像すると、とても楽しそうに思った。
あのときナナは太陽で温まった泥のぬかるみをもっと全身で感じたかったに違いない。大人にはもう思い出せないその心地よさを―。
あああ、ダメだ。
わたしたちは、本当にダメだった。
せっかくナナが本能にしたがって心から楽しそうだったのに。それを服が汚れるとか、出発しないといけないなどという理由で即座に止めてしまった。
・・・
わたしたちは「のびのびと育って欲しい」などと抜かしながら、気がつけば子どもの一挙一動に口を出すことに忙しい。それが一瞬先の未来を奪っていることにも気づかないまま、「悪いこと」が起こらずに済んだことに安堵する。そのすべては一見すれば子どものためのように見えて、結局は自分たちのためである。
ああ、ウザい、ウザい。
だからこそ、子どもたちにはしばし親と離れる時間や場所が必要なのだ。きっと、そのときこそ、子どもたちは、大地の感触を全身でまさぐり、世界の不思議さを発見する。いつかは、ぎゅっと握り続けてきたこの手を離す日が来る。そう思うとわたしはこの毎日が愛しくてしょうがない。家族全員で電車に乗って、眠い、暑い、寒い、疲れた、温泉入りたいと大騒ぎしながら小屋を建てる日々が。
P189
・・・「最近タコを捕まえたくてしょうがないんですよ~」というタコ愛を語り始めたのはまゆみさんだった。フラメンコが趣味と聞いていたけど、釣りも好きなのか、多趣味だなと思いながら話を聞く。それも、船から釣るのではなく、大潮のときに磯にいるタコと一対一で勝負したいという。疑似餌でおびき出し、網で捕獲することを夢みているとか。
ええと、どうしてタコなの?
「だって、あるとき磯でタコを捕まえている人を見ちゃったんですよ。見ちゃったらやるしかないって思って!」
エベレストに挑んだ探検家マロリーの「そこに山があるから」的なものだろうか。
・・・この小屋に集まる人は、誰も他の人の趣味や生き方を否定しない。「普通は~」とか「変わってるね」とも言わない。お互いにちゃんと話を聞いているのか、聞いていないのか、薄暗い小屋のなかでは、それもあまり気にならない。
オッキーは裸足でフルマラソンを走り、わたしたちは小屋作りに邁進している。そうか、ここにいる人は「意味はわからんけどやりたいことをやる」という人種なんだなと納得した。
こちらのサイトに小屋の写真が載ってました↓
https://books.bunshun.jp/articles/-/8510