これはおもしろそう・・・空いてる日にやってみたいです。
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東京に住んでいたころ、私はよく決まった用事もなく神保町に足を運んでいました。とりあえず適当な古書店に入ってみるのです。そこでは古書を介して、自分が予想もしなかった世界と出会うことができます。・・・
ほかにも、神保町にはレコード店も多くあるため、古今東西の名盤と出会うことができますし、浮世絵や美術作品を取り扱う店も存在しています。こうした店に入り浸りながら、せわしない日常と異なる時空間で遊ぶことが、私にとって最高の楽しみでした。・・・
こうしたことはいわば、いわゆる「普通の寄り道」です。しかし私は、もっと「無意識的な寄り道」も好んでやっていました。無意識的な寄り道とは、あえて迷子になってみることです。例えば、目の前に到着したバスに、行先も確認せずに乗り込んでみて、適当な場所で直感的に降りてみます。するとその場は自分が意識的に寄り道した場所と違い、勝手に連れて行かれた場所となります。正式な形で、安全に迷子になれるのです(風変わりな言い方ですが)。もし山や樹海でこうした行き当たりばったりの行動を取ると死んでしまう可能性がありますが、都市部であれば何とかして家に帰ることができるので安心してください。それでも意識的に迷子になることで、自分の野性的な勘や、普段使っていない感覚を発揮することができます。
当然ながら、どの方向に進めばいいかもわからず途方に暮れながら道を歩く羽目になります。しかしそうすることで、あたかも海外で一人旅をしてるような感覚にもなります。そうしたこと自体が、身体感覚としてとても新鮮なのです。私たちはどうしても何かしらの情報を先に取りこんだ上で、頭の中で予想しながら行動することが多いのですが、そうなると自分の頭の中にある情報にしか出会えなくなります。その点、迷子として歩いていると、あちこちに注意しながら移動することになります。結果、こだわりとセンスのあるお店や、面白そうな本屋さんに出会う確率が上がり、それらひとつひとつに対する感動も深くなります。・・・
・・・あるいは適当なバスに乗り込んで降りてみると、ただの住宅街だったということもあります。そういった時には、あまりキョロキョロしたりせず、さもその町の住人になったような意識で歩き続けることがコツです。
まったく知らない住宅街の中で、あたかも目的地がはっきりしているかのような歩き方をすると、どんな平凡な街並みでも新鮮な感覚を抱くことができます。これは、先ほどの迷子とも少し異なる感覚です。すべての通行人を観客と見立てて役者になるような感覚が近いかもしれません。意図的に何かを得たり、偶然の出会いを期待したりするための手段ではありません。むしろ、「何かを予測して制御する」という脳の仕組みから解放され、子どものような自由な境地を得るための、感覚のリセット行為のようなものです。
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・・・1人で休日を過ごす予定のある方には、ぜひ迷子になってみることをおすすめします。乗ったことのないバスや電車をぜひ当てずっぽうに利用してください。みずから迷子になり、不安になり、途方に暮れてみてください。きっと未知の感情や心理が沸き起こってくるでしょう。また、他人の存在のありがたみを感じ、ちょっとした優しさに涙が出る場合だってあるかもしれません。私も、知らないお婆さんに駅までの道を教わりながら、地元の商店街で売っている唐揚げをお土産として渡され、涙が溢れたことを昨日のことのように思い出せます。迷子においてはそのようにしていわば、弱い自分を発見するのです。
やがてそのうち、自宅へ帰る時間になるでしょう。今度は帰巣本能を働かせる番です。そのために必要な洞察力、観察力、嗅覚や第六感などを最大限に働かせる、いわば強い自分です。
「迷子」というひとつの行為の中で、弱い自分と強い自分とが固く手を結ぶこと。新しい自分が立ちあがってくるのは、そのような過程にあるのだと思うのです。まずは、いつもの帰り道を違うルートで帰宅してみてはいかがでしょう。