この辺りのお話も興味深かったです。
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―人間って「一回性」に固執するじゃないですか。話を聞いていると、3Dプリンタでモノを生み出す行為にはundoできる感じがつきまとうんですよね。ぼくは、そこが3Dプリンタの長所でもあり短所でもあると思っていて。
・・・
田中 ・・・3Dプリンタでモノをつくることを「コピー」というから、そう思うのかもしれません。3Dプリンタでつくったものは、コピーじゃなくて、痕跡なんですよ。もっと言うと、「抜け殻」なんです。
―抜け殻?
田中 データの抜け殻です。セミって、抜け殻だけ残してどこかに行ってしまいますよね。デジタルデータも、一度3Dプリンタで出力すると、できたモノ自体は変わらない物質として残るんですけど、データはそこにとどまっているわけではない。フローしたり、アップデートされ続けているんです。3Dプリンタで出したものは今のところはアップデートされないんですけど。だから抜け殻でしかない、過去の痕跡でしかない。そういう意味では一回性は認められるのではという気はします。ある瞬間のスナップショットでしかないけど、生生流転するデータのほうはまた別にあるわけだから。
この田中さんの話には驚きました。
前章のインタビューでぼくが藤井直敬さんに話した「データ的実存」と似たようなことを言っている気がしたのです。
「データ的実存」というのをもう一度説明しておくと、人間が他者に「実存」(リアリティ)を感じるのは、目の前の相手の身体(ハードデータ)と自分の記憶(バックアップデータ)、ふたつのデータがお互いにアップデートをかけている瞬間なんじゃないかという考えです。
肉体であるハードと心や記憶などのデータがあって、それがずっと相互に往き来してアップデートされてる状態が実存感である、という話です(わりと当然の話に思えますが、「肉体もデータ」だと考えているところに注意してください。つまりぼくはこの世界すべてがデータだと思っているのです)。
たとえば久しぶりに髪型を変えた恋人と会うと、自分のなかのイメージがアップデートされる、そういうときに人は新鮮な実存を感じています。会っていないときは、過去のデータを思い出しているわけです。いまの田中さんの話でいうと、これが逆になっています。データのほうが常にアップデートされていて、たまに出力するとモノが出てくるんだけど、それはすでに抜け殻(思い出)になっている……というわけです。
なぜこんなことが起きるのかというと、通常の認識では、現実世界は物質がオリジナルで、データの世界はデータのほうがオリジナルだからだと思います。どうやら、やはり、ぼくらはどこかでオリジナルという幻想を捨て切れていないみたいです。しかし、3Dプリンタが生命を生み出したとき「セミの抜け殻」がいつか、「オリジナルのセミ」だと感じられるのではないか―。