「見る」と「目線を向ける」

身体は「わたし」を映す間鏡である

 注意の濃さの違い、面白いです。 

 

P94

「〇〇さん、天井のロゴマーク、見えますよね?」

「その真下の位置に立ってロゴマークを見上げていただけますか。・・・この姿勢のまま、私が鎖骨を軽く前から後へ向かって押しますが、どうでしょう?押されると身体はかなり揺れますよね?」

 ・・・

「では、もう一度。今度は目の使い方を変えてみましょう。さっきは顔を天井に向けてマークを<見る>でしたが、次はマークに<目線を向ける>でやってみてください。<見る>から<目線を向ける>に変えるだけです。どうですか?今度は大丈夫ですね。しっかりとして、さっきよりはるかに安定していますよね」

 ・・・

「見る」を「目線を向ける」に変える。

 それだけで、身体の安定感がなぜ変わるのか?身体の中で何が起きているのか?

 ・・・

「見る」が、見ようとする対象、先の例では、天井のマークに向かうのは当然のことです。ただ、「見よう」とする意思が働くぶん、向ける注意が「濃く」なってしまう。注意の濃さが身体の不安定感を引き出してしまうことは、第二話でも触れた通りです。

 一方の、「目線を向ける」。これはただ単に目を対象に向けているだけですから、「見よう」とする意思も、「見ない」という意思もない、いわばニュートラルの状態にあるといえます。

 ・・・

 この「目線を向ける」状態のとき、「見る」から解放された身体は、その状態での安定をとるために、もっとも優先的に向けるべきところに自動的に注意を向けていきます。とくに揺らされるという状況であれば、本能的に身体は安定をとろうとするので、一般的には足裏であり、人によってはより身体の安定をとりやすい部位ではないか―・・・よくいわれる「ぼんやり見る」「周辺視」という状態に近いのかなとも思います。