与える

究極の選択 (集英社新書)

 桜井章一さんがいろんな質問に答える本、物事の捉え方の参考になりました。

 

P176

Q ・・・どうやったら自然体で「与える」感覚を自分の中に持てるのでしょうか。

 

A 「与える」行為をしようとしまいと基本それは人の自由だ。自分がもらうことばかりの生き方をしている人に対し、そんなことでは心が貧しいからもっと他人に「与えなさい」と無理強いすることはできない。でも、「与える」ことができる人が増えれば、社会の風通しはよくなり、もっとみんなが気持ちよく暮らしていけることは確かだろう。

「与える、捧げる」という感覚に限らず、頭ではわかっていても、なかなか実行に移すのは難しいということは山ほどある。

 ・・・

 頭でわかっていても、それを行動に移せない。この原因は、今の人の生き方に余裕が無いせいもあるだろう。

 ここで言う〝生き方〟とは、日々の生活ぶりや振る舞いといったものであり、今の世の中を見渡すと、生き方に余裕の無い人が本当に多い。

 時間の余裕、お金の余裕、気持ちの余裕、そういったあらゆる〝余裕〟が無くなってしまっているから、「誰かに譲ろう」「捧げよう」「与えよう」という感覚が薄れてしまっているのだ。

 ・・・

 日々の生活の中で「譲る」とか「与える」といった〝余裕〟を持てるようにするには、ほどほどのところで「これで十分です」という感覚を常に持つようにするといいと思う。

 たとえば目の前にコップがあったとして、多くの人はコップにあふれるほど目一杯の水が入って初めて満足する。中には水があふれだしているにもかかわらず、それでもまだ満足しない人もいる。

 そんな満足の仕方をやめて、コップ七分目くらいで「十分」と感じることができれば、残りの三割を余裕として取っておける。その余裕が思考や行動に柔軟性をもたらし、困難なことに直面したときなどに自分を助けてくれるのである。

 もっとも口では簡単にそう言えるが、人の心は実際には「七分で十分」とはなかなか感じられないものだ。

 では、どうすれば少しでも七分ほどで十分という心境になれるのか?

 そのためには、今、自分が持っているもののありがたさを深くかみしめるように味わうことだと思う。絶えず、「もっともっと」と思っている人は、すでに自分が手にしているものをろくに味わいもせずに、さらなる欲を掻き立てているのだ。

 ・・・もし寝たきりの状態から奇跡的に回復すれば、病気になる前は退屈でいやな家事だった掃除や皿洗いですら、こんなに自由に手を動かせる、指を動かせる、足を動かせる、とひとつひとつの動きが奇跡のようにありがたいものだと思うはずだ。

 すでに自分にそなわっているもの、手にしているものはたいてい当たり前に思って、その価値を蔑ろにしているものだ。

 だが、当たり前のことができないという状態を想定してみると、蔑ろにしたり、無自覚だったりするさまざまなことがものすごい輝きを持っていることがわかる。

 それをじっくり味わう感覚こそが、「七分で十分」という気持ちにさせ、生き方に余裕を生むのだと思う。「与える」という行為も、そうした中からきっと自然と出てくるのではないだろうか。