お祈りの仕方

迷える者の禅修行―ドイツ人住職が見た日本仏教 (新潮新書)

 なるほど、それはそうですよねと思いました。

 

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 毎年お正月、街頭で托鉢をしています。初詣のついでにお布施を鉢の中に入れてくれる方々には大変感謝しています。そのときに、「家内安全を」「ご縁がありますように」といった願いから、・・・具体的な注文まで、いろいろと口にされる方も少なくありません。・・・

 私は言われるがまま、それるがままにして、ただ般若心経を唱え続けているのですが、・・・ですが、相手の身にもなってください。元旦の朝から「頭を良くしてくれ」「水虫を治してくれ」と言われ続ける仏さまや神さまのお気持ちはいかばかりか。

 私は子供を持ってよく分かったのです。「あれがほしい、これがほしい」とぐずられても、親にとって子供はかわいいものです。しかしそれより、「お母さん、お父さん、いつもありがとう」という言葉のうれしいこと。どこの親だって「これやってちょうだい」より、「ぼく、自分でできるから、お父さんは見ててよ」や「お母さん、何かお手伝いできることはないの?」と言われたいに決まっています。

 初詣も同じ気持ちで、「あれをくれこれをくれ」というのではなく、神仏に手を合わせてこう願うのはどうでしょう。

「仏さま、神さま、命をありがとう。こんな私にでもお手伝いができれば、どうぞ何でもさせて下さい。よろしくお願いいたします」

 この願いこそ、自分の心の中の「子供(凡夫)」が「親(仏)」の気持ちを理解し、大人になろうとする時に発せられます。これが大人の第一歩、菩薩として第一歩です。

 道元禅師も、『正法眼蔵』の「生死」という巻の中で言っています。

 ・・・

 身をも心をも仏の家に投げ入れる。それと同時に、あくせくと計らっていた自分の生活は、仏の方から行われるようになる。何の力もいれずに、心も費やさずに、それに従って行くとき、悩みの種であったこの生死は、実は仏の命であった、と気づく。

 ・・・

 仏になるのに、簡単な方法がある。悪いことをしない、生死にとらわれない、生きとし生けるもののためを深く考え、上(内なる親=仏)を敬い、下(内なる子=凡夫)を憐れみ、何者に対しても嫌がったり、あれこれほしがったり、心に一物をもったり、心配したりしない自分、これを仏と呼ぶ。この自分の他に、探し求めても意味がない。