瞑想を深めると・・・

瞑想法の極意で開く精神世界の扉

 「アートマンに至るということは、ブラフマンに至るということでもある」、ここも興味深かったです。

 ところで今日の記事には関係ありませんが、今回のウィルスに関して、シンガポール首相のスピーチが素晴らしいと話題になってました。私も日本語でまとめてくれた記事を見て、確かにこんな風に言ってくれたらわかりやすい、と思いました。こちらで読めます→https://note.com/kanikana/n/n49894138904d

 

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 瞑想を深め、悟りを得るようになると、おのずから変化しないものを対象として求めるようになる。教祖のように生きている人間ではなく、神木のように長生きではあるがいつかは死んでしまう樹木でもない。山や河川は動物のように死ぬことはないが、地球規模の大きな時間の流れの中では、やはり変化する存在である。

 動物、植物、鉱物、水という具合に不変化なものを探求していくと、その先は「大気」にいく。大気は流動的ではあるが、動物、植物、鉱物、水と比べると、不変化な存在に近いといえる。

 瞑想を深めていくと、その「大気」をも突き抜けて、宇宙の果てに向かう。そして、宇宙のあらゆる存在を構成している「根源」に至ることになる。むろん人間と同じ形をした「神」でもなければ、樹木や山や河川、太陽などの自然崇拝の対象になるような存在でもない。

 本来、名前も形もないのだが、インド思想、インド哲学を形成する過程で、便宜上「ブラフマン」という呼称がつけられたものである。ブラフマンは梵、宇宙我などと邦訳されている。その宇宙の根源に対して、人間の根源に当たるものを「アートマン(真我・個我)」と呼んでいる。ブラフマンアートマンが合一することを「梵我一如」という。

 しかし梵と我(自分)が合一するという解釈でこの言葉を使うと間違いになる。アートマンは我(自分)ではなくて我(自分)の根源であり、ブラフマンと同一の存在である。したがって人間が究極の自己であるアートマン(真我)に至ったときには、すでにブラフマンアートマンは合一していることになる。つまりアートマン(真我)に至るということは、ブラフマン(梵)に至るということでもあるのだ。

 究極の自己である「アートマン」へ向かうことが、純粋な瞑想である。・・・