色々と思いが広がる、印象に残ったところです。
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白鳥 光田先生から教わった『神の探求』で、私がすごく印象的だったのは、「Lose self in Him(自我を主のもとに手放しなさい)」、それから「神を称えなさい」、「祝福の水路になりなさい」という言葉です。この辺の言葉についてぜひ詳しくお聞きしたいのです。
光田 まず、人間の本質が永遠不滅の高貴な魂であると気がついたならば、そこから先どう生きるべきかを、エドガー・ケイシーは教えてくれているわけです。
もしも我々の本質が永遠不滅の魂であるならば、我々が地上に生まれ変わってくる理由は何かと考えたときに、自分の魂を高めるためだ、自分の霊性を向上させるためであるという結論に自動的に落ちつくはずです。
では、どうすれば自分を高めることができるのかとなったときに、エドガー・ケイシーは『神の探求』というテキストを残してくれたのです。それは全部で24のトレーニング方法から成っていて、・・・まず最初に練習させられるのが、自己を捨てることです。自分を捨てる。
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そのときに最初に私の前に立ちはだかったのが、自己を捨てるという考え方でした。もしも神が「私」をこの宇宙に存在せしめたとするならば、なぜ私はあえて「自分」を捨てなければならないんだ。意味がわからなかった。自己を捨てた後で、祝福の水路になりなさいという発想になる。でも、その前に、自己を捨てて、なおかつ、主の御心がなされるように生きろと主張するわけです。 ・・・
そしてわかったのが、私の人生を誰が邪魔しているのかよくよく観察してみたら、最大の妨害者は「私」だったといういことです。「私」がいるから人生は生きづらい。「私」がいるから人生は行き詰まる。この私の足を引っ張っている「私」を消してしまえば、私は自由だと思った。ただし、その消し方が重要で、自分を殺してゴミ箱に捨ててはダメなんです。それでは意味がない。・・・どこへ捨てるかというと、主のうちに捨てる、神のうちに捨てる。そして、神が望まれるように生きようとしてみる。・・・
・・・自分の名誉心であるとか、そういったものを次々と捨てていく。そうすると、本当に自分が自由になるのです。まず、人からどう思われたいかという自分がいないのですから、周囲を気にしなくなる。なおかつ、主が望まれるように生きようと思うと―自分の中で想像し得る最高の主が、私にもしも望まれることがあるとするならば何であろうかと考えると―どうやっても私の中の最上を出して生きるしかないのです。・・・そのときに了解できたのが、ああ、自分を殺して主が望まれるように生きるということは、結局、小ざかしい自分をくまなく殺して、自分の中の霊性を生きることなんだと。そのときに私は自由を体験したのです。
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エドガー・ケイシーの考えでは、これは練習ですから、できる、できないではなくて、練習するか、しないかです。練習すればしただけ向上する。上達する。・・・