なんて健康的な

天才たちの日課 女性編 自由な彼女たちの必ずしも自由でない日常

 「生きる喜びがほとばしってあふれそう」だなんて、びっくりしました。そんな方でも、若いころはふさぎこんで過ごしていたなんて、人生いろんな局面があるなと改めて思いました(;^ω^)ジュリア・ウォード・ハウという方の話です。

 

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 ハウは「リパブリック讃歌」の作詞者としてよく知られている。・・・それが南北戦争北軍の愛唱歌となったため、作詞者として有名になり、尊敬されるようになった。・・・夫は彼女が作家として仕事をすることに反対していたので、それを押し切って書かなくてはならなかった。さらにハウは奴隷制廃止運動や婦人参政権運動などさまざまな社会改革運動に精力的に取り組んだ。九十一歳で亡くなった翌年、娘のモードがハウの晩年についての回想録を出版した。・・・「母は終生一貫して仕事をしていた。まるで自然の営みのように、休むことも急ぐこともなく着実に、仕事、仕事の毎日だった」・・・彼女の日々のスケジュールを見ればよくわかる。それは見事に仕事と余暇のバランスの取れたものだった。まず、朝は七時に起き、すぐに冷水風呂に入る(晩年にはぬるま湯に変更した)。そのあと家族と朝食をとるが、食卓はたいていにぎやかなものだった。モードによると、ハウは「朝がとくに元気だった」という。・・・「母はとても陽気で、生きる喜びがほとばしってあふれそうだったので、私たちは母のことを〝わが家のシャンパン〟と呼んでいた」とモードは書いている。

 朝食が終わるとすぐに、ハウは手紙や新聞に目を通す。そのあと、モードによると「朝の散歩に出かけ、柔軟体操をするか、孫とボール遊びをし、それが終わると本格的に仕事にとりかかる。午前十時には机についていた」。そして「調子を上げるために」、とても難しい勉強―ドイツ哲学の本やギリシャ演劇の本、ギリシャの歴史や哲学の本などを読むこと―から始める(ギリシャの本を読み始めたのは、五十歳のときにギリシャ語を学び始めてからだった)。そのあとは、そのとき手がけている著作の執筆にとりかかり、「鉄を金床にのせて鍛えるように」せっせと仕事をする。それからニ十分の仮眠をとり、昼食の時間になると、いつも好きなものを好きなだけ食べる。それで気分が悪くなるようなことはない。モードによると、「ダチョウ並みの消化能力があると家族にいわれていた」。

 昼食のあとは机に戻って、午前中の仕事の続きをし、手紙の返事を書き、最後になにか軽めの本、たとえばイタリアの詩や旅行記やフランスの小説などを読む。日が暮れてからは、決して仕事をしなかった。打ち合わせや人と会う予定がなければ、夜は家族と過ごすようにした。夕飯をいっしょに食べて、そのあと「おしゃべりをしたり、トランプ遊びをしたり、音楽をきいたり、朗読をしたりした」。

 ハウはあきらかに晩年を楽しく過ごしていたようだが、その理由のひとつは、不幸な結婚のせいで、若いころは十分に人生を楽しめなかったからだろう。二十四歳で結婚してすぐに、夫と自分は結婚生活に求めていることがまるでちがうと気づいた。・・・ハウは結婚当初、「おもにふさぎ込んでいるか、寝ているか、赤ん坊の世話をしているかで、夢遊病者のような状態で」過ごした。そのときのことを彼女は「すべての美しいもの、すばらしいものから引き離されて、まるで目が見えなくなったような、死んだような気がする」と書いている。ハウはそういう束縛に、最初はおずおずと、次第に大胆に抵抗するようになった。一八五三年には・・・詩集を出版し、そのことを知らなかった夫を激怒させる。・・・一八七六年に夫が死去した・・・彼女がそれから亡くなるまでの数十年間を、いかにも楽しそうに生きたのも当然だろう。死期が近づいたとき、娘から「人生の究極の目的について一言でいって」といわれたとき、九十一歳のハウは少し考えたあと、次のような一文にそれをまとめた。「学ぶこと、教えること、奉仕すること、そして楽しむこと!」