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あの人の宝物: 人生の起点となった大切なもの。16の物語

 人生のこんな展開、面白いなぁと思いました。くまのパディントンシリーズなどを翻訳した松岡享子さんのお話です。

 

P27

 ・・・大きなキャリーバッグから最初に取り出した宝物は、七歳の読者、田中たくじくんからの手紙である。

 原稿用紙に筆圧の強い、枡目いっぱいの大きな字でこう書かれていた。

「がんばれヘンリーくんをやくしてばかりいないでいそいでくまのパディントンをやくしてください。おもしろくて、おもしろくてやめられません。はやくあと7さつともやくしてください。松岡享子さんはやくはやくやくしてください(後略)」

 一枚に「はやく」が六回書かれていた。松岡さんは目を細めて言う。

「こんな迫力のある手紙は、後にも先にももらったことがないです。達意の文章ってこういうことを言うんじゃないかしら」

 ・・・たくじくんとは、そこから思わぬ交流が始まった。

「夏休みはお母様と大阪から図書館へいらしたりして。高校生になってもお手紙をくれてね。あのときだけは筆圧がシューってか細くなって、胸が痛みましたね。日本の教育って子どもをこんなにするのかって。彼の結婚式にも出席したんですよ、私」

 私は目を丸くした。そんなことがあるから人生って面白いのよねと、松岡さんは少女のように首をすくめて微笑んだ。

 たくじくんは京都大学で農学博士号を取得後、カナダの大学で准教授になった。その彼のもとに、二〇〇六年、思いもしない仕事が日本から舞い込む。

 松岡さんが、『パディントンのラストダンス』の共同訳を彼に依頼したのだ。

「心配はありませんでした。子どものころから好きだという強い気持ちをわかっていますから、その気持ちに託したのです。はたしてすばらしい訳があがってきました。ずっと読んできたから、イメージができているんですね。パディントンシリーズは三冊、彼に頼みました。メールのやりとりも楽しかったですね」

 ・・・

 子どものころ大好きだった作家と、三十四年後に好きだった作品の仕事を一緒にするとはいったいどんな気持ちだろう!これこそ、一通の手紙から始まったファンタジーではないか。