塩野七生さんの、1975年~2013年までのエッセイが集められた本です。
さすがイタリア暮らしが長いとサッカーにも自然と詳しくなるそうで、この超一流に必要なものは、という話は興味深かったです。(この部分は2000年に書かれたものです)
P116
質問十五 最後に、塩野さんが好きな選手とその理由をお聞かせください。
「ACミランのボバン。プレイのエレガントなこと、息を呑むばかり。二人目は、先のシーズンかぎりで引退してしまったけれど、ラツィオの9番だったマンチーニ。理由は、抜群の知力。三人目は、今季からはローマでプレイする、バティストゥータ。理由は、セクシー、の一語につきる。
・・・
そして、この三人には共通するものが一つある。それは、イタリア語でいう『カッティヴェリア』(Cattiveria)で、日本語では『悪意』と訳すしかない言葉ですが、単なる悪意ではない。言い換えれば窮極の自己中心主義で、自分のためにプレイしているにかかわらず、なぜか結果は常にチームのためになるというやり方。チームの利益になるか否かには関係なく自分のためのみを考えるという、利己主義とはまったくちがうのです。イタリアでは、惜しいところで負けた試合を、『カッティヴェリア』が欠けていた、と評します。イタリア流に言えば、欧州選手権の決勝では、イタリアの選手たちに『悪意』が欠けていたから、ロスタイムで同点に追いつかれ、延長で逆転負けしてしまったのだ、となるのです。
あるとき乗ったローマのタクシーの運転手が、こう言っていました。
『ナカタはボン・ジョカトーレだけど、フォーリクラッセではまだない』
ボン・ジョカトーレ(Boun Giocatore)とは、『良い選手』の意味。フォーリクラッセ(Fuoriclasse)とは、超級という意味だから、日本語に訳せば『超一流』となるでしょう。
『超一流』には、これはどの職業でも同じですが、『悪意』を欠いてはなれないのです。今季の中田君は正念場と思うけれど、それだけにかえって、『良き選手』から『超一流』に脱皮する絶好のチャンスだと思う。なにしろ、『カッティヴェリア』ならば不足しない『フォーリクラッセ』の見本のようなバティストゥータと、毎日顔を合わせるのですよ。中田君と半年をともにした現ペルージアの監督のマッツォーネの、次の言葉が思い出されます。
『すべてをもっているナカタだが、カッティベリアだけはまだ会得していない』
積極的な意味の『悪意』が、人間を神に変えうるのだと、ヨーロッパ的なヨーロッパ人は思っているのです」