草刈民代さん

バレエ漬け (幻冬舎文庫)

10年ちょっと前の、草刈民代さんのエッセイを読みました。
面白かったです。
ここは、そんな国もあるんだとびっくりしたところです。

P61
 一九九一年秋、私は旧ユーゴスラビアルーマニアの劇場に招かれた。
 ・・・
 ノビ・サトの劇場で『ジゼル』を踊った次の日、私はパートナーのミハイ・バブシュカさんと、彼の恋人で、コーチをしてくださっていたイワンカ・ルカテリー先生とともに、ブカレストに向かうため、旧ユーゴスラビアベオグラード駅に、列車出発時間の三十分前に到着した。
 駅に着いてまだ三十分もあるのに、なぜかミハイさんも、ルカテリー先生も、急ぎ足だ。
 まるで、「早く列車に乗らなければ」というように、早足で歩くのだった。
 車両に乗り、座席を探し、椅子に座る。
「これで、OK」
 やっと落ち着いて、ほっと一息ついた。
 しかし、出発まであと二十分以上はあるのに、なぜそんなに急ぐ必要があったのだろうか。なんだか、わけのわからないままに、一緒になって慌てていた私は、隣に座っていた先生に話しかけようとした。その時だ。
 なんといきなり、電車が発車してしまったのである。
「えーっ!?」
 時計を見ると、発車予定時刻まではあと十分近くある。
「Why?出発まであと十分もあるのに!」
 あまりにびっくりしたので、私は少々興奮気味に、ルカテリー先生に尋ねた。
「ここでは電車が遅れることもあるけれど、早く出発することもあるのよ」
 先生は、当たり前のような顔をして、そうおっしゃる。
 うそー、そんなこと、日本人の私には全く想像できない。
 しかし、列車は走ってしまったけれど、大丈夫なのだろうか。
「時間ぴったりに来た人は、乗れないじゃないですか」
「だから、早めに来ないといけないのよ」
 それは、もっともな意見だ。それにしても、こんなことって、あり?
 公演で訪れたことのあるロシアや、十代の頃にコンクールで訪れたブルガリアなどで、日本人としては理解しがたい文化の違いに接してきたつもりだった。そして、そういうことに対する免疫ができているつもりでもいた。しかし、わかったつもりで高をくくっていた私は、度肝を抜かれたのだ。
 いつも電車に乗る時はぎりぎりで、新幹線に乗る時でさえ、乗った直後にドアが閉まり、発車と同時に「ほっ」と一息、ということを、日常的に繰り返していた私は、ここでは自分の感覚は全く通用しないと悟った。そして、考えを改めなければと、肝に銘じたのである。
 恐るべし、東欧の国々。私は甘かった。