属性

生命と記憶のパラドクス 福岡ハカセ、66の小さな発見 (文春文庫)

この展示、体験してみたかったです。

P66
 他人が私になりすましているのではなく、私が、私本人であることの証拠は?生年月日や住所がすらすらいえること?そんなこと全然あてにならない。・・・
 では、常に私に属していて、私だけに固有で、私から奪うことも、取り換えることもできないものなら?たとえば筆跡。たとえば声紋。たとえば虹彩。そう、実際にこれらが生体認証として利用されるようになっている。
 たしかに、それは私が私本人であることを示す、ひとつの指標ではあるだろう。でも、それはほんとうに、わたしだけに固有で、常に私に属し、私から切り離したり、取り換えることができないものなのだろうか。
 佐藤雅彦さんは、これを「属性」と呼んだ。佐藤さんは、言わずと知れた遊び方の天才。あの愉快なポリンキーのCMやピタゴラスイッチ、だんご3兄弟の生みの親。・・・
 私が私本人であることを立証しうるさまざまな「属性」。でも、それは不変でも、固有でもなく、切り離したり、取り換えることもできる、実に頼りないものであることをあっさりと、しかし見事に提示してくれているのが、「〝これも自分と認めざるをえない〝展」だ。(東京ミッドタウン21_21DESIGN SIGHTにて二〇一〇年七月十六日から十一月三日まで開催された)。
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 入館するとまず氏名、身長、体重、指紋、虹彩パターンなどをとられる(個人情報なので、もちろん他の人にはわからない)。私の指紋は、私の指先から離れてちょこまかとミジンコのように池の中に泳ぎだし、他の指紋の中に紛れていってしまう。なんだか寂しい気持ちになる。でも、もう一度、認証機に指を触れると、私の指紋は一目散にこちらへ戻ってきてくれる。うれしい。
 こんな風に来場者は普段は当たり前に思っている自分の「属性」について、様々な体験をしていく。そのうち、なんだか変な気持ちになっていく。揺さぶられているのだ。私の「属性」はどれもとてもちっぽけ。しかも自分固有のものなんかじゃ全然ない。筆跡だって。記憶ですらつくりうる(最後に用意されているこのしかけは、自分が自分であること=自己同一性を支える根幹であるはずの記憶ですら、取り換え可能な「属性」かもしれない、という事実を突きつけられる)。
 たぶん佐藤さんの問いかけもここにある。「属性」というなら、属性を作り出すおおもとの「本性」というものもあるはず。でもほんとうは、「属性」をいろいろ集めてくることでしか「本性」を示すことができない。つまり私が私本人であるということは、周囲を属性というものでくり抜かれた真空のようなものでしかないと。デザインで存在の哲学を問うなんて佐藤さんにしかできない。
 私本人を形作っている物質的基盤も、実は絶え間ない分解と合成の真っ只中にある。だから全く不変じゃない。・・・