恐れと共に

9番目の音を探して 47歳からのニューヨークジャズ留学

踏み出す時には恐れはつきもの。
この辺りを読みながら、恐さの先に行くことって大事だなと思いました。

P328
 ヒッチコックの映画にStage Fright(舞台恐怖症)というのがある。彼がイギリス時代に作った映画で舞台という限られた空間の中にある恐怖を切り取った名作だ。
 昔マービン・ゲイがステージ出る前に「恐い恐い」と言って袖で震えていたそうだ。その彼の背中をマネージャーがぽんと押す。そうすると彼はおずおずと舞台の光の中へと出て行く。そうして一旦その中に入ると、あのマービン・ゲイになるという話。
 僕には経験がある。今まで恐かったことのないステージなど一回もないくらい緊張の連続だったし、その緊張と舞台でのパフォーマンスの狭間にある、何か見えない川のようなものを渡ったときに気がつくとそこにいるのだ。クリスたちと感じたあのリズム。あれもそうだ。新しいもの、未知なものへの恐怖と興味。現実ではない空間へ入る恐さとドキドキ。
 どこか似てないか。学校の中から徐々に外へ出る準備をしなければならない。
 ・・・
 ・・・変わり続ける自分はこれからいったいこのNYという街で何をやっていくのか。
 思えば人生自体が1つの舞台である。その袖には出演者がいつも待機している。舞台に足を踏み出したらもうスポットの中で顔を俯けているわけにはいかない。・・・
 舞台を降りてメイクを楽屋で落としながら、自分の今夜の舞台に何が必要だったのかを冷静になって考える。色んな人種がいて自分にはない世界を生きている。誰かになるなんてことはできないしやる必要も無い。だとすると、自分のフォルテはなんなのか、今一度じっくり考えてみる時期ではないか。
 ・・・
「とりあえず俺はシカゴに帰るかな。まずは職を見つけなきゃ。千里は?」
 僕は卒業を延ばそうかな、ふとそんなことを考えた。もう1セメスター頑張って何かを探してみる。でも言葉には出せなくて、ただ「サバイブ!」とだけ答える。
「そうさ。サバイブさ!」
「そう人生はサバイブ!」

P340
 ・・・NYを目指した4年前には想像だにしなかった現実が、より目の前に肉薄して来る。人生の経験値とは一体なんの意味があるのだろう。あの頃よりもむしろ無防備で使える武器が何もない。虚栄も、多少残っていた傲慢も、そんなに意味をなさないことがすでに証明済みだし、素手で勝負をしようとだけ思っても足りない力は自分が一番知っている。どんなに今自分が心もとなく孤独なのかということを、誰かに大声で叫びたかった。しかし、まあ、なるようになるでしょうと思い直す。好きなことをやりにここに来た訳だから、と自分に言い聞かせて大きく伸びをして地下鉄の駅に向かった。