「秘境に学ぶ 幸せのかたち」という本を読みました。世界は広いなー・・・と呆然とするような秘境の話が色々紹介されていました。
これはヒマラヤでのお話。印象的でした。
P196
ブータンを訪れた時のことであった。
ある村を車で通りかかった。夜にも関わらず、道端に数え切れないほどの人々が集まっている。腕時計を見やると午後八時だ。・・・
聞けばその家の十五歳の長男が病気で死んだので葬式をしているという。それにしてもこの参列客の多さはどうだろう。車窓から見た時はこんなに沢山の人がいるような大きな村に見えなかったのだが……。
側にいる人に尋ねた。
「皆さんは、この村の人ですか」
「いや、隣村からと、その隣からも来ているな」
「そんなに大勢の人が来るということは、この家はよほどの著名人か地位が高い方のお宅なんでしょうね」
「いや、普通の家だよ」
初老の男性は平然と答えた。解せない気持ちのまま、その夜は目的地の宿泊先へと急いだ。
五日後、首都のティンプーに戻るために再び同じ村を通った。私は目を疑った。
「ちょ、ちょっと待って」
慌てて車を止めた。五日前と同じ家で、全く同じように人々が家の周りを取り囲んでいたからである。
状況を説明されて更に驚いた。私が夜に通りかかった五日前は葬式の初日だった。それから葬式はずっと続いていて今日は六日目にあたる。しかも葬式はまだ一日残っている。合計一週間で招いて食事を振る舞う人の数は千人を下らないという。失礼だとは思いつつも敢えて、その家の主に尋ねた。
「どうしてそんなに沢山の人を呼ばなければならないんですか」
すると主は「何でそんなことを訊くのか」といった憮然とした表情で答えた。
「皆、同じようにやっている。当たり前のことだ」
そして語気を強めた。
「息子が救われるためだ。安いものだよ」
ブータンの人々は葬式という儀式をとても重要に考えている。
「死んだ者があの世で現世の所業の許しを得ることが出来るように、金を持たせてやるのだ」
そう信じている。大金を費やして供養をするのはそのためである。中国にある「紙銭」の考え方とも似ている。葬式の費用として用意された金額は約二万六千円。農業を生業とする家の主である四十一歳のドルジが五年間かけて貯めたものだ。
彼らは自給自足の生活をしている。現金収入はほとんど無い。・・・
しかし、弔問客千人に振る舞う食事代など葬式費用は思った以上にかかった。用意していた金では足りなかった。ドルジは天塩にかけて育てた牛二頭と豚三頭を売って、足りない分を補った。手元には豚二頭だけが残った。一回の葬式でほとんどの家畜を失い、財産を使い果たしてしあったのである。それでもドルジは「よかった、よかった」と喜び、満足そうな笑みを浮かべている。
事情を知った私は思わずドルジに声をかけた。
「全財産を使い果たしてしまって、これからが大変ですね」
急に気の毒に思えてきたからだ。しかしドルジは胸を張ってこう言った。
「生きていく上で余分なものはなるべく持たないほうがいいんだよ。必要なお金はまた貯めればいいから大丈夫だ」
・・・厳しい環境に生きる人々は生来、「持たざる」ことが「豊か」であると知っている。・・・彼はこころから「自分が身軽になったこと」を喜んでいたのである。彼らにとって豊かとは、物質的なものから解き放たれた状態のことを言うのだ。