この気づき

こだわらない練習: 「それ、どうでもいい」という過ごしかた

私がそう感じているのだなぁと、気づくこの感覚を知っていると、ちょっと解放されるような。
(難しいときもありますけど ^_^;)

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 今思い返しますと、その部屋はあちこちがカビていて、日当たりが悪いため冬は寒い(夏は涼しかったですが)。また小田急線の線路と踏切が至近でしたから、しょっちゅうカンカンカンと音が鳴り響いていたうえに、お隣さんの笑い声やケンカの声やTVの音がいつも聞こえてきていて、うーん、お世辞にも住み良い環境とは言えないような代物でありました。けれどもその頃、修行に専念していて五感(五官)に触れる刺激に反応しない「捨」の訓練を続けていた私にとっては、それらのことはまったく気にならないことだったのです。
 のみならず、学生時代を振り返ってみると、昔は隣家のTVの音に過敏に反応して「深夜なのにこの音量でうるさい音をたれ流すなんてナメてんのか、チキショウッ」と腹を立てて眠れなくなったりもしていたものでしたから、イライラしなくなった私自身の変化を面白く思ったくらいです。
 ああ、「うるさくてムカつく音」という実体が存在するわけではなくて、あくまでも「ムカつきたい」という煩悩のエネルギーが自分の中で働くからこそ、音をうるさいと感じるだけなのだなあ……と。
 ・・・
 ・・・「風呂なしボロアパートに住むことによって、自分のこだわりを捨てて自由になる訓練をしてみましょう!」と、万人に推奨したいわけでもないのです。
 と申しますのは、どんな精神的修行にチャレンジするにしましても、それが「快適すぎる」「耐えがたい」という両極端から離れていることが、着々と我が心を育ててゆくための、大事なポイントだからです。
 私たちの心は、快適さに甘やかされると弱くなりますし、かといって今の自分には耐えられないほどの苦行を課すと、過分な緊張とストレスにさらされて、心が育つどころか、いじけてしまいます。
 "甘やかし"と"苦行"という両極端に近寄らず、その両方の合間にあるほんの一本の細い道―ニュートラルな道、すなわち中道を歩む、というのが、仏道でもあるのです。