心に個性はない?


大阪から戻りました。
「本質に気づく、目覚めのコース」http://www.aqu-aca.com/seminar/towakeup/は、今回4回目の開催でした。
このコースって、断食みたいな効果もあるんですね。
空の状態になると妙にすっきりするな〜とは思ってたのですが、つながってませんでした(笑)
当たり前といえば当たり前なのかもしれませんが(^_^;)
話は変わって、また最近読んだ本のメモです。

運のつき 死からはじめる逆向き人生論

養老孟司さんの本を読みました。
心に個性はないってちょっとびっくりしますけど、なるほどでした。

P37
 西欧近代的自我とはなにか。つまり個人があって、その個人とは本質的に変わらないこの私だ、というわけです。でも、そんなものはない。私はそう思ったわけです。だって、物質的に考えたって、去年の自分と今年の自分では、からだを作っている物質は、ほとんど入れ替わっているんですからね。・・・それなら自分がどんどん変わるということは、物質的には認めなけりゃいけません。それなら「同じ私」なんて、ない。
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 ほかの本にも書きましたけれど、じつは心に個性はありません。そう認めるしかないんです。心に個性があってもいいんだけれど、それは他人には無関係です。私だけにわかって、他人にはわからないこと、それは他人にとって意味がありません。私だけの感情、これも無意味です。なぜなら、定義により、他人はそれを理解しないからです。
 個性があるのは、身体なんですよ。脳も身体のうちですから、脳の個性はむろんあります。
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 ・・・ノーベル賞クラスの仕事でも、他人が理解しなければ、評価のしようがありません。他人が理解できるということは、その他人も「同じことを考えている」ということじゃないですか。「でも、その人は自分では思いつかなかったでしょうが」。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。みんなが理解できるということは、だれかが思いつく可能性が高いということですからね。
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 つまりどんなに独創的といわれる仕事でも、他人が理解しなかったら意味がないんです。ところが、他人が理解するということは、「同じことを考えてる」ということですからね。
 私は別にノーベル賞の悪口がいいたいんじゃありません。その背景にある個人主義を指摘しているんです。脳には個性があるんですから、人によってはたらきが違うのは当然です。でもそのはたらきの結果は、人間のあいだで「共通」でなければ、意味がないでしょ、といってるんです。ところが個性そのもの、あるいは個性の源である身体は、他人と共通してないんですよ。だから個性は心ではなくて、身体なんです。