ありのままをとらえる

もっと あの世に聞いた、この世の仕組み

言うはやすし、行うは…(^_^;)という「ありのままをとらえる」ことについてのお話です。

P136
 自我はあらゆる物事に意味や価値をつけるのが大好きなんだ。どんなものでも「そのまま」にはしておけない。何かと決めつけようとしてしまう。
「何か」を「何か」として把握したり、その定義を誰かと共有するためには、意味や価値が必要になるからね。
 その「定義」が揺らがぬよう、その意味や価値を他のものと関連づけて一つの物語をつくるんだ。
 ・・・
 そうやって書き上げられた意味と価値の集大成、物語の一つひとつが、人間が「人生」と呼んでいるものなんだ。
 だからこそ、人生には苦がついて回る。
 おまえだけではない。ほとんどの人間はフィクションを「現実」だと勘違いしたまま生きているからね。
 その勘違いが、人生における不自由さや窮屈さ、また、苦しみを生んでいるんだ。
「ああ、そういう話ですか。最近の精神世界コーナーにある本なんかでもよく目にするようになってきましたね。『ありのままをとらえよう』っていうやつですね」
 たしかにそうなんだがね、人は虚構をとらえることに慣れすぎているから、「ありのままをとらえよう」ってスローガンを抱えても、そう簡単にとらえられるものじゃないんだよ。
 だからね、最初のうちは「ありのままをとらえること」ではなく、逆に、「ありのままがとらえられていない」という自覚をもつことから始めたほうがいい。
「じゃ、その自覚を得るには、どうしたら?」
「自分が見ている現実が、誰にとっても同じ現実であるとは限らない」という態度で生活してごらん。そうすればおのずとわかってくる。
 意味や価値が「そのもの」にあるのではなく、それをとらえている人によって与えられているということにも気づくはずだ。
 ・・・
 ・・・実在するおまえは一人だ。しかしだよ、おまえのブログのコメント欄を見てごらん。そこには、幾通りもの黒斎が存在しているんだ。
 ・・・
 実在する黒斎は一人でも、Aさんが見る黒斎と、Bさんが見る黒斎は、同じではない。さらに、おまえ自身がもつ「自己イメージ」もまた別だ。みんながみんな、「自分にとって」の黒斎を見ている。
 つまり、あらゆる意味や価値は、「そのもの」に付随しているのではなく、それをとらえている人に付随しているということなんだ。
 ・・・
 ・・・人は自分で解釈できる方法をもってでしか、世界を認識できない。
 だからこそ、同じものを目の前にしても、その印象に違いが現れるんだ。
 古くから「その花が美しいのではなく、その花を美しいと思えるあなたの心が美しいのだ」などと語られているとおりだ。