意識と無意識

猫背の目線 (日経プレミアシリーズ)

ひきつづきこの本から・・・
夢を見なくなったことについて、こんなお話があり、無意識とつながっていくとこういう風に…という流れがなるほどと思いました。

P109
 ぼくの昔の夢は全然日常的でなかった。空飛ぶ円盤や宇宙人や時には神仏まで現れるかと思うと幽霊まで出てくる。こんな夢が何年も続いた。ところが最近はこの手の夢はピタッと見なくなって、ごく日常的、それも昨日の出来事の延長だったりして日常と夢の区別がほとんどなくなってきた。あの昔の時代の夢が懐かしいのだが、青春時代が二度と帰ってこないように昔の夢には戻れないような気がする。
 生前三島由紀夫さんは「俺には無意識がない」と対談相手の阿部公房さんに言ったことがある。ぼくの最近もこれに近いような気がする。つまり夢という無意識が顕在意識と区別できなきゃ、どっちかがないというしかない。といってぼくは一日中夢を見ていると言えば、人は異常だと思う。三島さんみたいにぼくも無意識がないと言えば阿部さんから、「そんな馬鹿なことはない」と言われてしまう。
 日常と夢が同化してしまうとやはり無意識がないというしかないだろう。まあ三島さんほど自信を持って「ない」とは言えないが、やはり無意識的に何かをやっちゃうというのが以前に比べると段々少なくなって、やはり自覚して何かをやるようになっているようだ。気がついたらやっちゃったということは段々少なくなっていく。それなりに理由があったり意味があったりする。
 それが如実に夢にも反映している。逆に夢が日常的になったために無意識と顕在意識が地続きになってしまったのだろうか。そうなると直観の存在も怪しくなる。今まで直観は無意識からの信号だと思っていたのが、無意識がなくなると直観も次第になくなっていく。では芸術のインスピレーションはどうなんだということになる。
「そうなんですよ、問題はそこなんですよね」
 どうも昔のように電撃的なインスピレーションってやってこないような気がするのである。そうじゃなくて、「なるようになっていく」そんな感じなのである。非常に感覚的になっている、というか感覚に従っている自分を発見することが多い。直観がなければ観念的になったのか、というのとも違う。まあそれらが総合しているといえばいいのだろうか。閃いたり、考えたりしたわけでもないのに、「こうなっていく」のだ。
 だから失敗もない代わりに成功もない。どっちだっていいということになる。「ねばならない」とか手段というものがなくなってしまうのだから、当然目的もないということになる。すると何があるのだろう?あるのは遊びだけじゃないかなと思う。